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一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

ノートルダム大聖堂
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セーヌ川のボートから見上げるノートルダム大聖堂(2011年3月)


仰天のニュース、4月15日夜から翌朝にかけてパリのノートルダム大聖堂が大炎上。尖塔や屋根が完全に燃えて崩落。


突然の出来事に暫く声を失いました・・・。


パリは当ブログ主にとって極めて馴染み深い街の一つであり、無論この大聖堂にも何度となく訪れています。これから当分の間、ひょっとすると生きている間に再びその優美な姿を目にすることは出来ないかと思うと、本当に心が痛みます。


思い返して見れば、この余りにも世界的に著名なモニュメントについて、不思議とこのブログでは未だ一度も取り上げてはいませんでした。いつもそこに凛と建っている不朽の存在として余りにも身近か過ぎていたからかも知れません。


本日は、普段読者の皆様がご覧になったことが無いであろう早朝のノートルダム大聖堂とその周辺の写真をお見せしながら、永遠の記憶としてブログ主の心にも残したいと思います。


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撮影は、とある冬の早朝、未明のひと時。セーヌ川の灯りがノスタルジーを誘って美しいです。


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ノートルダム寺院直ぐ脇のカフェの朝は早く、陽が昇る前から開いています。ここでちょっと一休みするのが大好きです。注文するのは、勿論エスプレッソ!


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早朝なので、未だ殆ど観光客も居なく、極めて厳かな気持ちになります。


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聖母マリアと幼いキリスト像。十字架のキリスト。キリストの受難は永遠に続くのでしょうか。


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外がようやく明るくなり始めた頃のノートルダム大聖堂。この姿がもう見れないかと思うと胸が張り裂けそうです・・・






今日の音楽。もうこの人しか思い浮かびません。フランスの作曲家・オルガニスト、ルイ・ヴィエルヌ (Louis Victor Jules Vierne, 1870-1937)。ヴィエルヌはセザール・フランクに音楽の才能を見出され、パリ音楽院への入学を薦められました。しかし、1890年に入学後間もなくフランクが急逝したため、1894年音楽院を修了するまでシャルル=マリー・ヴィドールに指導を受けます。
そして1900年、 到頭オルガニストにとって最高のあこがれの地位であるノートルダム大聖堂のオルガニスト奏者に指名され、彼が没するまでその地位を守りました。ところがヴィエルヌが在任当時、ノートルダム大聖堂のパイプオルガンは老朽化が進んでいたため、常に修復が必要な状態であり、その修復資金を集めるためにヴィドールと共にヨーロッパ中は無論のこと、アメリカにまで演奏旅行を行うことになりました。その御蔭もあって1932年、ようやく修復が完了、再びヴィエルヌは大聖堂で演奏をすることが出来るようになったのです。彼がノートルダム寺院で行った演奏会は、何と通算1750回。その最後の演奏会は1937年6月2日であり、当日のプログラムを弾き終えて結びの即興演奏を披露している最中に突然倒れ、そのまま絶命したという劇的なエピソードについては本ブログでも以前ご紹介したことがあります。(2010年9月5日の記事


大聖堂の一日でも早い修復を願って、ヴィエルヌの交響曲第1番。前の記事では第6楽章のみが聴こえるようにアップしておりましたが、現在ではリンクが途切れていますので、改めて全曲が聴けるサイトに連結するようにしました。




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古都の桜
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記事の更新がままならない内に、桜前線がドンドン北上中とのニュースに今年はお花見らしい花見をしていなかったことに気がつきました。とは言え、東京周辺はとっくに散ってしまいましたので、それよりは開花が遅い京都の桜を見に行って来ました。と言いましても、1週間前のお話。直ぐにアップすれば良いものを、何かと慌ただしく、今日になってしまいました。本当に済みません。しかし、訪れた時のお天気は快晴。桜が本当に美しかったです。もう2,3日後でしたら、こんなに綺麗ではなかったことでしょう。


今日は只管その時に撮影した写真をご披露することに致しましょう。所々に最近SNSなどで話題のスポットの写真が交じっています。市内の何処を散策したかは、言わずもがなです。


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それにしても外国人の観光客の多さにビックリしました。ここで写真をお見せすることは遠慮しましたが、特に和服をお召しの女性グループやカップルが思いの外多かったです。すれ違った観光客の内、約8割が外国人だったのではないでしょうか。言葉から判断して、その大半は中国や台湾からの来訪者。しかし、中には東南アジアからと思しき観光客も少なからず。もちろん欧米からの来訪者も沢山いらっしゃいました。しかも皆さん、日本人?と思えるほどに和服の着こなしがお上手で、きっと素晴らしい記憶と記念になったことでしょう。近頃は和服レンタル屋さんの数も格段に増えているようで、揃えている和服の質・量や柄の多彩さ、そして着付けの技術など、ひと昔前とは雲泥の差です。


満開の桜を堪能し、(写真はありませんが)美味しい京料理も戴きました。気分的にだいぶリフレッシュしましたので、明日からまた頑張れるような気が致します。






さて、今日の音楽、折角日本の最も美しい季節の風物に触れて来ましたので、邦楽から長澤勝俊 (1922-2008) 作曲 『春の一日』 (1997年作) を聴いてみましょう。








ポルトガル紀行(5)-サン・ロケ教会
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再びリスボン市内に戻って日本とも深い関わりのあるサン・ロケ教会を訪れてみましょう。

正面(ファサード)の入り口方向から見ると妙に近代的なデザインで、そんなに歴史があるような教会には見えません。しかし、これは16世紀の中頃に小さな礼拝堂から始まった教会を歴代の王たちが1世紀近くをかけてイタリアのマニエリスム様式、バロック様式、ロココ様式など、当時の芸術の粋を集めた装飾を施し、見事なまでに壮麗な教会に仕上げられたのですが、1755年の大地震によりファサード部分が崩壊。その部分だけが近代に入って再建されたため。中に一歩入ると、金をふんだんに使用した豪華さに目が点になること必定です。


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古びて多少輝きが失われてしまっているとは言え、さぞや全盛時には絢爛豪華であったことは間違いありません。それもその筈、この教会、なんとポルトガルのイエズス会の本拠なのです。イエズス会と言えば、そう、あの日本にキリスト教を初めて伝道したフランシスコ・デ・ザビエル(1506-1952)が所属していた教会の団体です。


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フランシスコ・ザビエルは元々スペイン東北部にあったナバラ王国の生まれですが、カトリック教会の宣教師となり、やがてポルトガルにやって来てイエズス会の創始者の一人となりました。イエズス会は設立当初より世界中にキリスト教を広めることを標榜していたこともあり、ザビエルがリスボン周辺で活動している内に、時のポルトガル王ジョアン3世の命により、1941年にインドのゴアに向けて派遣されることになりました。ゴアに到着した翌年から数年間同地周辺で布教活動を行った後、1545-46年にはマラッカ(現マレーシア)やモルッカ諸島(現インドネシア東部の島々)まで布教活動を広げ、そして1549年到頭日本にまでやって来てキリスト教を伝来したというわけです。


この教会は、フランシスコ・ザビエルがらみで日本との縁が深いだけでなく、1582年から1590年まで約8年間という月日をかけて行われた天正遣欧使節団の一行がポルトガルのリスボンに到着して約1ヶ月を過ごしたという事実がありまして、特別な存在となっています。リスボン市内を散策される場合には、是非訪れてみることをお薦め致します。






さて、今回のポルトガル訪問では他にもいろいろな教会や場所を見学致しました。しかし、近年のように月1回や2回程度の記事更新では、たった数回に亘る紀行記事を終えるのに数ヶ月もかかってしまいます。その間に季節も変りますし、何より世の中がどんどん変わって行きますので、書いている内に自分で言うのもなんですが何やら新鮮味が欠けて行くような...(汗)。


というわけで、最後にポルトガル訪問中に最も記憶に残ったお菓子の写真で、この一連の訪問記を締めくくりたいと思います。
ジェロニモス修道院の直ぐ近く、べレンの町にある名店パスティッシュ・デ・ベレンで売っているパスティッシュ・デ・ナッタと呼ばれるいわゆるエッグタルトです。開店早々から終日このお菓子を買い求めるお客さんたちで長蛇の列が出来、最初は当ブログ主もそのことが分からず、この大行列は一体何事が起きているの?と危ぶんだほど大人気です。焼き立てのお菓子を店内のテーブルについて頂くことが出来ます。行列は長くても手際よく注文から会計まで済ませられますので、案外待ち時間は短いです。店内に入って空席を見つけたら、飲み物などをウェイターに注文。シュガーとシナモンパウダーを振りかけて食べるのが常道だそうです。焦げ目がついてパリパリに焼き上がった表面と中がトロ~リの卵黄クリームがコーヒーと絶妙にマッチして至福の時間を過ごすことが出来ました。この他にもポルトガルでは一杯美味しいものや美しい風景などなど、沢山ご紹介したいネタがありますが、一応この辺で一旦終了とさせて頂きます。


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ポルトガル紀行(4)-ロカ岬
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ポルトガルやスペインがヨーロッパ大陸の最西端に位置していたことが(アメリカ大陸を含めて)世界の新天地を発見・開拓する初めての西洋文明の国に成り得たことに大きく利していたという事実は、意外と看過され、あまり指摘されていないように思われます。カトリックの本拠地バチカンがあるイタリアでもなく、ましてやルネッサンス期までは片田舎でしかなかったイギリス、ドイツ、フランスでもありませんでした。キリスト教の普及という点では後進国であり、むしろイスラム勢力の圧迫に絶えず晒されてきたポルトガル・スペインが他国に先駆けて世界の海に漕ぎ出したのは、東方からやって来る貴重な香辛料や絹製品など当時の富裕層が喉から手が出るほど欲しい物品を地中海貿易を牛耳っていたアラビア商人ら、更にはベネチアやジェノバの商人らの手を通じてしか入手することが出来なかった正にその地理的に不利な位置にあることが、そうした経路を介さない東洋との直接取引を強く望んだ大きな要因となっています。それとほぼ同じ頃に、当時の科学的進歩により(まだ確信はないものの)地球が丸いらしいという説が徐々に認識されるようになり、東方ではなく逆に西方に向かうことによって東洋に到達できると考える者たちが現れました。


コロンブスはそうした新しい考えに基づいて、西に向かって航海を続ければやがてはインドに到達する筈という主張をし、その探険に乗り出すための船団を組む莫大な資金を時の王族たちに懇願した最初の人物でした。結果的にはスペイン王室の援助を得て新大陸の発見に成功することになりましたが、彼が最初にアプローチしたのは実はポルトガルの王ジョアン2世でした。如何にしてポルトガルではなくスペインがパトロンとなったか、この辺りの経緯については既に様々な書物や資料にそうなった理由と共に詳しく書かれているので、ご興味のある方はご自身でお調べ下さい。ここでは詳述を省きますが、バスコ・ダ・ガマによる喜望峰廻りのインド航路発見が先にあったこととスペイン・ポルトガル両国のそれぞれの財政事情等々があったとだけ言っておきましょう。いずれにせよ、もしも様々な出来事が何かの事情でちょっとでも時間的にずれていたら、その後の世界の歴史がすっかり変わっていた筈と思うと、正に運命のいたずらとしか思えない不思議な「あや」の連続であったことがお分かりになることでしょう。



歴史的経緯のお話はさておき、そのヨーロッパ最西端に位置するポルトガルの一番端っこ、ロカ岬に行って来ました。ポルトガル各地の観光名所を巡るバス・ツアーに参加すれば、何の心配もなく連れてってくれます。しかし、当ブログ管理人の私は単身旅行者、ガイドブックを参照しながら自分の力で行ってみようと思いました。簡単にルートをご説明致します。


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ジェロニモス修道院などがあるべレム駅から鉄道で西に向かって終点のカスカイス駅まで約30分。リスボン市内から乗るのであれば、約40分程。始発はカイス・ド・ソドレ駅です。リスボン市内を走る地下鉄のカイス・ド・ソドレ駅に直結しています。カスカイス駅で降りたら改札口の北側にバス乗り場があり、ロカ岬行を探すと直ぐに見つかりました。綺麗なお城があるシントラの町経由のものと、直接岬に向かう二通りの行き方があるようです。先に来た方で良いでしょう。大体1時間に1本程度という間隔で運行されています。


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バスに揺られて約1時間程度(何処を経由するかによって時間は変わります)。ロカ岬のバス停に近づくと目印になる赤い屋根の灯台と共に海が見えて来ました。


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そして岬の先端にあるのが冒頭写真の十字架の搭。遥か西方に向かって直立しているその搭の足元には、ここがヨーロッパ大陸最西端の場所であることが刻印されています。訪れた観光客の皆が搭の前で記念写真を撮りたがるので、結構長い順番待ちとなるかも知れません。


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そして岬の先端からの眺めが次の2枚の写真。果てしなく続く大西洋が眼下に一望出来ますので気分は最高! お天気も快晴!


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アイルランドの風景(4)(2017年9月3日の記事)で訪れたドン・エンガスの断崖の時と同じような感慨を持ちました。この大海原の先に新しい世界があるに違いないと信じていたとしても、よくも出港して何十日間も陸地を見ることのない航海をしたものだな...と。


ところで、バス停の直ぐ横にあるインフォメーション・センターでは、ヨーロッパ最西端に来たことを証明する署名入りの書類を作ってくれます。お値段が変ってなければ、確か1枚10ユーロです。私も作ってもらいましたが、大変いい記念になりますよ~。そして帰路は、元来た道のカスカイス行のバスに乗ってもよし、あるいは時間が許せばシントラに立ち寄って貴族たちの美しい館を巡るかです。





さて今日の音楽、ポルトガルの音楽からはちょっと離れますが、本日のタイトルからの連想でこの曲をご紹介したいと思います。フォークソングが全盛期だった頃を懐かしんで山本コウタローさんが唄う『岬めぐり』。年代が上の方々には大変懐かしいのでは。。。 歌詞も音楽も少々感傷的で、聴いていてちょっぴり哀しくなりますが、今改めて聴きますと、とても良い音楽だと思います。







ポルトガル紀行(3)-海洋博物館
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実はジェロニモス修道院と同じ建物の西側に海洋博物館はあります。ほとんどの観光客は修道院とべレムの搭だけを見学することが多く、あまり顧みられない施設ですが、ポルトガルが世界の海に進出した歴史を学ぶ格好の資料が多数展示されていますので、是非こちらにも足を運ばれることをお薦め致します。上の写真は博物館への入り口。修道院の喧騒(右の前方)と対比して人が極端に少ないです。


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入場早々に出迎えてくれる立派な銅像は、かの有名な『エンリケ航海王子』(1394-1460)です。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ朝に次いで現れたアヴィス朝の創始者ジョアン1世 (João I, 1357-1433) の三男。一説に拠ると、1414年ジョアン王が息子たちに参加を呼び掛けて城内の余興として馬上一騎打ち大会を催すことを企画したところ(3人の王子たちが勝ち残るのは目に見えています)、「そのような形式ばかりの戦いでは意味がありません。実戦での武功を示してこそ真の価値があります」と進言。その当時、地中海ではイスラム勢力が圧倒的な力を誇示しており、ジブラルタル海峡の周辺はアフリカ大陸側(現在モロッコの領土)から突き出した半島の根元にセウタという町があり、ここを支配していたイスラム勢力がその港を根城にしていたため、ポルトガルやスペインなどは屈服を強いられていたのです。王子は、このセウタ攻略を大胆にも提案し、大方の予想を裏切ってその奪取に成功しました。(注. セウタは現在もポルトガル領になっています。)


このセウタ攻略が功績となり、王子はヴィゼウ公に任ぜられ、またこのことが契機となってアフリカの地理・文化や未知の地域との交易に大いに関心を持つことになり、積極的に新天地(この場合はアフリカ大陸のこと)開拓に乗り出すことになりました。遠方まで到達するためには、船舶の改良と天文学・海図・航海術等、科学的知識を高めることが必須の課題となり、エンリケ王子はその関連事業に資金をふんだんに継ぎ込むことを推し進めます。まだ王様ではない彼がそれ程までの資金を調達出来たのには、わけがあります。1420年、敬虔なキリスト教信者である彼はテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者に任ぜられ、この騎士団の莫大な資金を投入することが可能となったのです。


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一方、海洋開発事業が飛躍的に発展したもう一つの大きな要因は、大西洋の荒海(特に北アフリカ西側の海は荒れることで有名)に耐えるだけの強度を持った船舶の構造改良に成功したことです。地中海貿易では当たり前だった、いわゆる平底のガレー船ではなく、丸底のキャラベル船、あるいはほぼ同時期に開発されたより大型のキャラック船の登場です。コロンブスがアメリカ大陸発見に使用したサンタ・マリア号などはこの船型の代表になります。大西洋の荒れた大波に遭遇しても、この丸い船底によって力が分散し船体の崩壊を免れることが出来たのです。ちなみに上の写真で模型船の帆に描いてある赤い十字の印は、キリスト騎士団の紋章になります。


エンリケ航海王子の支援により、大西洋の開拓が日毎に進みます。マデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、カーボヴェルデ諸島の発見、そしてそれらの島々への入植。やがてアフリカ大陸大西洋岸沿いに新天地発見の地点は着実に延伸し、王子の存命中には現在のシエラレオネ付近まで到達しました。(なお王子自身は航海探険に出ておらず、あくまでその後方支援をしたことで、後に『航海王子』の名で呼ばれるようになっています。誤解されませんように。) 王子が他界後もポルトガルの海洋事業は継続し、この後、ディオゴ・カンによる現コンゴ河の河口付近における石柱の設置やバルトロメウ・ディアス (ca1450-1500) による喜望峰の発見(到達)があり、バスコ・ダ・ガマ (ca1460-1524) によるインド航路発見と繋がります。この辺りの背景や経過については、以前本ブログにて取り上げたことがありますので、そちらをご参照下さい(2016年10月16日の記事)。


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この新天地に足跡を遺した証としての石柱を打ち立てるシーンは、いわゆるリスボン港テージョ湾に向かって聳え立つ『発見のモニュメント』にも描かれています。開拓者たち一団を率いる先頭は、勿論エンリケ航海王子。石柱は側面の真ん中辺りに見えますので、是非記憶しておいて下さいね。


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大航海時代のみならず、その後のポルトガルの発展と船舶の進化の歴史を示す無数の(たぶん何百艘とある)リアルな模型(中には実物大も)と共に展示されていますから、模型マニアの方でしたらタメ息が出ること間違いなしです。








ポルトガルの作曲家、本日は時代を大きく遡ってジョアン4世(João IV, 1604-1656) の音楽を聴いてみましょう。首相にまでなった作曲家については知る人ぞ知る、とある有名人物が居りますが(誰かお分かりですか?)、王様自身が作曲をし楽譜が残っているということでは、この人が最たる人物になりますでしょうか。なお時代が時代ですから、教会音楽のグレゴリア聖歌になります。“Crux Fidelis”







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