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一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

ポルトガル紀行(1)-ジェロニモス修道院
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年初のご挨拶をリスボン港岸に聳え立つ「発見のモニュメント」の写真を背景にしましたので、これから数回に亘りポルトガル紀行を綴りたいと存じます。テーマは「大航海時代の幕開け」。第1回の今日は、世界文化遺産にも登録されている「ジェロニモス修道院」です。


冒頭の写真は、修道院の正面玄関入口上部。ジェロニモス修道院は、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓やポルトガルによる海洋進出の大きなパトロンとなったエンリケ航海王子(次回以降に触れる予定)の業績を記念して1502年に時の国王マヌエル1世 (1469-1521) によって着工されました。最終的な完成までには約300年かかったそうですが、先ずはその壮麗な美について何枚かの写真でご紹介しましょう。


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正面玄関向かって左側を撮影した写真です。入場開始まで暫く列に並んで待たされるのですが、見とれるほどに美しく多少の待ち時間が全く気になりません。


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中に入ると2階建ての回廊になっていることが分かります。


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この修道院名物の回廊の様子です。実際には、この2階の回廊に出るまでにポルトガルが世界の海に乗り出し今日までの歴史を占めす資料などがパネル展示されているコーナーがあって、それからこの回廊に出られるようになっています。この回廊はマヌエル国王が存命中に完成したそうですから、もっとも建造初期時の名残りがあるところになります。実は、はるばる日本から派遣された天正遣欧少年使節 (1582に長崎を出発し、2年後の1584年にリスボンに到着、マドリードやローマを訪問後に1586年に再びリスボンを訪問、日本には1590年に帰着した)が港に着いて初めて目にした大きな西洋の建物がこのジェロニモス修道院であったろうと思われます(当時のリスボン港の様子を描いたスケッチ画によると、この修道院の直ぐ真ん前に船が着岸していたことが分かります)。少年使節団の一行がこの回廊を歩いたかも知れないことを想像すると、さぞや彼らが驚愕、感嘆した様子が目に浮かびます。


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後にご紹介する少年使節団らが宿泊先としていた当時イエズス会の本部となるサン・ロケ教会と共に、我が国にキリスト教が伝来した当時のカトリック・キリスト教の雰囲気を最もよく伝えるこのジェロニモス修道院は、ポルトガル(リスボン)訪問時に真っ先に訪れるべき名所の一つです。





ところで、ポルトガル出身の作曲家と言えば、皆様、どのくらい挙げることができるでしょうか?
スペインの作曲家なら何人か思い浮かべることができる筈ですが、意外と難問なんですよね。


本日は、代表的な作曲家の一人、ルイス・マリア・ダ・コスタ・デ・フレイタス・ブランコ(Luís Maria da Costa de Freitas Branco , 1890- 1955)についてご紹介します。20才の時、ベルリンに留学し、後にはドビュッシーらにも師事を受けていますから、かなりヨーロッパ大陸中央的な本格派の作風です。代表作は1924年から1952年の間に書かれた4つの交響曲。それぞれ丹念に探すとYouTubeで聴くことが可能です。そんな名前を聞いたこともない作曲家の作品など時間をかけて探してまで聴く時間はないと仰るお忙しいクラヲタの殿方たちには、次の小品をお薦め致します。「The Temptations of Holy Father Gil - Symphonic Fragments」 (1911-1912年作)。ドイツ留学直後で完全に後期ロマン派風ですが、彼の実力が十分に知れるものであり、重厚かつ聴き応えのある作品に仕上がっています。




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賀春 平成31年
NYD2019
ポルトガル・リスボン市にある大航海時代を記念する「発見のモニュメント」


明けましておめでとうございます。

いよいよ平成最後の元日の朝を迎えることになりました。

種々の事情により更新も間遠になりがちな本ブログですが、新天地を目指して荒海の大海に乗り出した先人たちの意気込みに見習って、未来に向かって一歩ずつ前に進めたいと思っています。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


ポーランドの作曲家モーリツ・モシュコフスキ (Moritz Moszkowski, 1854-1925) は19世紀後半に絶大な名声を博するものの、徐々にその人気は陰りを見せ、やがて不運にも自身が健康を害するようになったことと並行して経済的にも困窮を極めるようになり、 悲惨な最後を遂げてしまいます。しかしながら、少なくとも彼の壮年期に作曲されたピアノ協奏曲ホ長調 Op.59 (1898年作) は、未来志向の輝かしさに満ち溢れた音楽に仕上がっており、聴いていると大変勇気付けられます。結果は天にお任せするとして、少なくとも明日に向かって向上心だけは持ち続けたいと思う当ブログ主です。





Bohemian Rhapsody
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またまた暫くブの間ブログの更新を滞らせてしまいました。相変わらずの多忙で、多少気にはなったものの、それに関わる余裕はなく、今日まで来てしまいました。完調とはほど遠いものの、取り敢えず元気ですので、皆様どうかご心配なく。



さて、いつの間にか師走ですねぇ。只今は日本に帰っておりまして、連日の寒さに凍えながら仕事をしています。そして先日、遅ればせの紅葉鑑賞に近くの公園に行きました。しかし、昔住んでいた北国のそれに比べると色付きがいまいち。敢えて皆様にお見せする程では無かったのですが、如何にせん、これが限界です。


では、久し振りに何か楽しい催し物でもないかと繁華街に出かけた先で、ふと目に入ったのが映画「Bohemian Rhapsody」の案内ポスター。丁度このブログで数回前(と言っても4ヶ月以上も前になりますが)に「Queen Symphony」を取り上げましたので、これは見に(聴きに)行かなくてはと思った次第。


映画の最初の方では、フレディー役のラミ・マレック氏のお顔が「何か本物とは違うんだけどなー」と違和感を感じながらも、お髭を生やした後半からは「ちょっと似ているかも」と印象が変わり、最後のライブ・エイドのシーンでは「もう似ているかどうかなんか関係ない」くらい本物に成り切っていたのではないでしょうか。それと映画冒頭のライブ・エイドのステージに上がる直前のシーンで背中の方向から撮られた映像。あれはご本人のリアル映像?それともラミ・マレック氏が演じた再現映像? 最後の20数分間は、様々な資料を元に、1985年当時のライブ・エイドの会場を完全に再現したセットで撮影・収録したそうですから、そのリアル感は半端ないです。しかも、音楽は可能な限りオリジナルのQueenによるものを採用し、そこへこの映画のために新たに採録したものを随所に使用したそうです。どこまでが実写(またはそれを元に加工したもの)なのか、再現映像なのか、判別し難い程によく仕上がっています。残念ながら、私が鑑賞した映画館はドルビー・アトモスの音響設備ではなく、普通の7.1チャンネルでしたが、それでも十分に音楽を堪能することが出来ました。


ところで、「Queen」はあくまでロック・グループです。いわゆるクラシック音楽とは対極にある音楽ジャンルですよね。それがどうして「Bohemian Rhapsody (日本語にするなら「ボヘミア狂詩曲」でしょうか)」なんて、クラシック音楽ジャンルのような曲名になったのでしょうか。この一見全く異なる2つのジャンルを繋ぐ不思議な謎。これが、この音楽グループが他のそれと一線を劃す大きな魅力になります。この映画では、彼らの音楽が一体どのようにして産み出されていたのか、その秘密の一端が明かされています。翻訳された字幕の歌詞も素晴らしく、メッセージがストレートに伝わって来ます。またロックとは言え、メロディーラインがとても明瞭で美しい。ビートルズにも共通して言えることですが、ブリティッシュ・ロックがクラシック音楽の伝統を土台にして産まれたことが改めてよく分かります。未だご覧になられていない方は、是非劇場に足を運ばれてみて下さい。


本物の映像の方をご参考に。もう他界されて27年にもなるのですね。




そして最後に、本物のライブ・エイドと映画の相当シーンを並べて比較した動画です。当時の映像を探していたら、YouTubeにアップされていました。これを見ると、関係者一同が如何に忠実に再現しようと努力されたかがよく分かります。





平和記念像
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長崎にある平和記念像。上の写真は昨年同地を訪問した際に撮りました。8月9日のこの日を迎え、また沖縄の翁長知事急逝のニュースを聞いた上で改めて拝見しますと、普段とは異なった何か特別な感情が込み上がって来ます。


指先は、あの原爆が落とされた天空の一点を指し示しているように思えたのですが、実は爆心地の中心点はこの像の真上ではなく、そこより少し南側だそうです。


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こちらの原爆落下中心地碑には、「原爆殉難者名奉安」と書かれていました。原爆による死者は落下直後で7万4千人、負傷者は7万5千人と言われています。当時の長崎市の人口が約24万人だったそうですから、その被害の甚大さがいかに凄まじいものであったか、この数字を聞いただけでも伺い知れます。無論、原爆による放射線被爆の恐ろしさはその後にも続いたわけで、こうした後々にまで影響する被害による犠牲者も含めれば、その数は遥かに大きなものとなります。


ところで核兵器禁止に関する日本政府の見解はどうなっているでしょうか。我が国は、宇宙空間、大気圏内、水中、地下を含むあらゆる空間での核兵器の核実験による爆発、その他の核爆発を禁止する『包括的核実験禁止条約』については、1996年国連総会において署名、翌年批准しています。ところが核兵器の全廃と根絶を目的とする『核兵器禁止条約』に対しては、驚くことに反対の立場を取っています。国際社会の至るところで「原爆による唯一の被爆国」と口先では言いながら、この条約に賛同しないどころか反対する、その理由が分かりません。事実、多くの国々が日本は言っていることとやっていることが矛盾していると指摘しており、不信感を表明する国すらあります。


核兵器を既に所有している複数の国が存在している現状では、条約に署名してもその実効性が乏しいというのが政府の表向きの見解のようです。しかし、本当にそれだけが理由でしょうか。あるいは敗戦後、60年以上も米国の核の傘の下に平和と繁栄を保証されて来たという負い目があるからでしょうか。それとも実は、核兵器を完全に禁止すると表明すると(我が国の産業界にとって)都合が悪くなる裏の理由があるからでしょうか。日本の戦後における米国追随姿勢の是非について、ここで論ずるのはいささかテーマが大き過ぎで、本ブログの主旨からも逸脱してしまいます。しかし、特にトランプ大統領が就任してからの首相の米国に対する盲目的追随姿勢を見ている国民としては、他人事ではありません。実効性云々の以前に、どのような社会が理想なのか、その信念の表明こそが大事だと思うのです。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と米国間の劇的な変化を目の当たりにして、そこから蚊帳の外に置かれている現実を経験したばかりではありませんか。過去ではなく将来を見据えて、この条約に対してどのような姿勢で取り組むのか、首相はその姿勢を見せるべきでした。私たち一般国民が一番望むものを国際的に発信する絶好の機会であったのに、それをみすみす見逃してしまっていることが歯がゆくてなりません。


プチ平和の中で、連日様々な団体が個人の都合でいいようにのさばることが許される悪弊が露見するニュースが続いています。総裁選挙にまで、その悪弊が拡がっていることに愕然とするのは私だけでしょうか。あれだけの不祥事や行政文書の改ざんが続き、不透明・不公正な行政判断が行われて来たにも拘わらず、現職の誰もが責任を取らず、居座り続けることが出来るのはいったい何故なのでしょうか。与党だけの話に留まりません。間もなく行われる知事選挙の候補者選びで、野党各党の思惑だけでゴタゴタするのは、本当に止めて頂きたいものです。上からの指令や忖度に拠らず、自分(たち)の意思をきちんと表明すること。それが出来る人に未来を託したいと心から思います。







伯爵夫人
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未だ女性が社会進出することが難しかった19世紀のイギリス・ビクトリア朝時代、作曲の分野で草分け的存在となったアリス・メアリー・スミス (Alice Mary Smith, 1839-1884)について2012年5月19日の記事で取り上げました。


ほぼ同じ頃、当時としては類稀なる才能を発揮して自身が指揮するオーケストラまで組織し、ほぼ定期的な演奏会まで行っていたもう一人の音楽的逸材について今日はご紹介したいと思います。彼女の名前はヘレン・マチルダ・チャップリン (Helen Matilda Chaplin, 1846-1929)。1866年、彼女が20才の時に後に(1889年に)ウェールズ地方のRadnorshire郡の第5代伯爵としてその地を治めることになるWilliam Pleydell Bouverie (1841-1900) と結婚したことにより、最終的には伯爵夫人となりました。一般にはLady Radnorとして知られています。


Helenは音楽とガーデニングに特に才能を発揮したようで、夫が子爵の称号をもらっていた結婚直後の頃より女性弦楽器奏者からなる楽団を組織し、これが後にLady Radnor's Bandとなり、1880年代から90年代にかけてロンドンや地方の町々で様々な作品を演奏した記録が残っています。


彼女が英国音楽史の中で記憶されているのは、こうした時代に先駆けて行った数々の業績と共に、彼女の名前が冠された作品が実際に残っているからでもあります。その作品とは、「Lady Radnor's Suite」。彼女が楽団で演奏するためにと、当時英国音楽界では名前が広く知られた代表的作曲家パリー (Sir Charles Hubert Hastings Parry, 1848-1918)に作品を委嘱し、その結果1894年に出来上がった弦楽オーケストラのための全6楽章から成る演奏時間15分程度の小品です。英国音楽と言えば、「弦楽オーケストラ」と言われるくらい有名なジャンルであり、事実エルガー、ヴォーン=ウィリアムズ、ブリッジ、フィンジらが後に数々の名曲を残しましたが、実はその嚆矢ともなった作品がこの曲なのです。パリーは、今日英国音楽の代名詞とも言われる弦楽オーケストラという新しい伝統が確立する以前に活動した作曲家であり、その意味では時代の限界という悲運を背負った作曲家でもありました。5つの交響曲を始め数多くの作品を残しましたが、その多くは当時ヨーロッパ大陸で2大潮流となったブラームス、ワーグナーらの音楽の内、特に前者の影響を多分に感じさせるものであり、結果として評価がいまいちに留まらざるを得なかったわけです。しかし、この「Lady Radnor's Suite」の作品がその後の英国音楽伝統の先駆けとなったことを思えば、パリーについてはもう少し再評価されても良いのではと管理人などは思っています。種々の演奏がYouTubeにアップされています。一応のお勧めはこれになるでしょうか。






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