アリの町のマリア
- 2008/01/23(Wed) -
SK4



あなたたちが私を選んだのではなく、私が、あなたたちを選んだのである。― ヨハネ聖福音書十五ノ十六


バタヤ部落のことを記事にした関連で、もう一つ思い出したことがありました。私が小学5年生頃の実話です。

クラスのある男の子が、鉄屑であれ何であれ、何らかの金属片をその部落に住むおじさんのところへ持って行くとお金に換えてくれると言うのです。中でも銅が一番高く売れるのだとか。

銅と鉄の違いもあまり明確には理解していないままに、きっと新しい10円硬貨みたいなものが銅なのだろうと勝手に決め込んで、話を聞いたクラスメート数人と金属探しの旅に出かけることになりました。旅と言っても、ただただ近所の空き地や公園をウロウロと歩き回っただけですが・・・。初めは意気揚々と出発したものの、そうそうそんなものが落ちているわけがありません。結局、その日は針金の端切れか釘くらいしか見つけられず、みんなションボリと帰宅したように思います。

あくる日の学校帰り。おそらく電線工事があった直後だったのでしょう、道端にキラリと金属らしい光が見えました。それは、長さたった20cm程度の電線の切れ端でしたが、その時一緒にいた3人はまるで宝物でも見つけたかのように喜び勇んでそれを持って、噂のおじさんのところへ行きました。

「これ買ってくれるん?」

おじさんは、私たちをしげしげと眺めると、おもむろにポケットから10円玉と5円玉を一つずつ取り出し、私たちの手に握らせました。私たちは、もう有頂天。「やったあ」と心の中で声を張り上げながら、駄菓子屋さんに直行しました。当時の駄菓子屋で一人分5円と言えば、それなりに何か楽しみが得られたものです。

それからしばらくの間は、いつも道端に何か光るものはと落ちていないかとキョロキョロ探すクセがついてしまいました。今からすれば、光っていたのは私たちの目であって、まことにお恥ずかしい限りです。もっと恥ずかしいことは、おじさんがくれた15円は決して電線の端切れに対して払ってくれたお金ではなく、私たちのためにと少ない現金の何がしかを恵んでくれた寛大な配慮であったことに全く気が付かなかったことでした。



関西なら今でも時々目にしますが、東京の其処彼処にも、いわゆるバタヤ部落なるものがありました。そうした集落の一つ「蟻の街」と呼ばれるバタヤ部落がかつて隅田川のほとりにあり、そこには若くて美しい一人の独身女性が献身的に働いていたことをどの位の人がご存知でしょうか。彼女の名前は、北原怜子(さとこ)さんと言いました。[管理人注:何年か以前にとあるテレビ局が彼女のことを取り上げましたので(おそらく「知ってるつもり」か、「アンビリーバボー」であったと思われますが、失念してしまいました)、その番組で北原さんのことを知った方もいらっしゃるかも知れません。]

北原怜子さんは、大学教授の父とその妻を両親に東京の杉並区に生まれ、桜陰高等女学校を経て、昭和女子薬学専門学校を卒業。それまで何不自由なく育った良家のお嬢さんであった怜子さんが、21才になったある日のこと、ふとしたことで知り合ったポーランド人修道士との出会いにより「蟻の街」のことを知ったのです。怜子さんは、すぐにその街と積極的に関わるようになり、ついにはその街に移り住むことを決意、毎日街のために奉仕活動するようになりました。

怜子さんのこうした行動は、初めの内は、どうせ変わり者の一時的な気まぐれさと、街の住民たちですらまともに相手にしようとはしませんでした。が、しかし、彼女の献身的な働きぶりに、しだいに住民たちの見方は変わり、しまいには誰からも慕われ、また心の拠り所となる存在となっていったのです。

ところが、神様はいつも善人に過酷な運命を課されるように思います。怜子さんは、連日の奉仕活動ですっかり身体を壊し、まもなく「蟻の街」の中で病床につくことになってしまいました。病状は一向に回復に向かうこと無く、悪化するばかり。そして「蟻の街」に移り住んでまだ10年と経たないある日のこと、とうとう神に召されてしまいました。それは1958年1月23日の朝、丁度ピッタリ50年前の今日の出来事でした。享年29才。

在りし日の北原怜子さんのお姿は、こちらの写真です。

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北原怜子さんと「蟻の街」については、当時街の中に住み、「先生」と呼ばれて住民のリーダー的存在であった松居桃樓(まついとおる)さんが、北原さんが亡くなってまもなく出版した「蟻の街のマリア」という本の中で詳しく紹介されたのが始めです。その本は版を重ね、怜子さん他界後5年が経過した1963年には、若干改題された増補改訂版「アリの町のマリア―北原怜子」が出版され、今日に至っています。ご興味のある方は、是非こちらをお読みになって下さい。

アリの町1




トーマス・タリス(Thomas Tallis, 1505-85)の「40声のためのモテット Spem in Alium」は、40声という古今東西数ある多声部用合唱の中でも、ずば抜けて複雑な曲構造を持ちながら、その難解さを少しも感じさせることが無い名曲です。10数分の間、ある時は生まれたばかりの赤子を祝福するように、ある時は死を迎える人々の苦しみを取り除くように、天国の調べが聴く者の心を浄化し癒してくれます。それはまるで、すべての生きとし生けるものに対して天上の神が振り向ける優しい眼差しのように。アーメン。


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[管理人より]
諸般の事情により、当分の間こちらのブログを休ませて頂きます。もしも楽しみにしていらした方がいらっしゃいましたならば(そんな人いるのかしら・・・)、ごめんなさい。これまで私の拙いブログを読んで下さり、また貴重なコメントを頂きましたすべての方々に心から御礼申し上げます。
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ある冬の日の思い出
- 2008/01/22(Tue) -
Mara1



大寒を過ぎて一年で一番寒いこの季節。ふだんは雪と縁の薄い地方にも降雪の知らせがチラホラと・・・。

私が子供の時分には、今と比べてもっとずっと寒かったような気がします。朝早くに学校に行けば、校庭の水たまりが凍っていて、運動靴でスケート気分を味わったこともよくありました。最近は道路の水たまりが凍っているなんて、とんと目にしていないように思います。


この時期になると、まるで昨日のことのように鮮明に思い出すことがあります。それは小学校6年生の3学期、ある寒い日のことでした。卒業まで残すところあとわずか。学校ではお別れの想い出にと、6年生全員が講堂で思い思いの出し物をすることになりました。なかよし同士が数人で歌うも良し、楽器の演奏も良しというわけで、お菓子やジュースも用意され、子供心にもワクワクするイベントになるはずでした。

私たちのクラスでは、1年生の入学式から6年生のその日まで最も記憶に残った行事や出来事を寸劇として演ずることで、楽しかった6年間を振り返ろうというアイデアが出されました。発案者が誰であったかは思い出せないけれど、当時学級委員だった私がそのまとめ役となるように先生から指名されたのです。劇のテーマとして何を選ぶか、クラスのみんなからいろいろな意見が出ましたが、結局遠足や運動会など、誰もが納得するイベントを各年から一つずつ選び、そのハイライトシーンを舞台で再現することになりました。何だかんだで2〜3週間、休み時間などを利用してみんな熱心に練習したことを覚えています。

クラスには5年生の途中から入って来た転校生が一人いました。名前は「ツグオ」君。いつもツギアテのシャツやズボンをはいていたから「ツグオ」君と呼ばれたのではなく、ホントの名前が「ツグオ」君。でもツグオ君は、シャイだったけれど、遊ぼうと声を掛ければいつもニコニコと笑顔で仲間に入ってくれてるクラスの人気者でした。そんな彼だから、当然のことのように幾つもの重要な劇の役が割り当てられました。


さて本番の当日、予定の出し物が二つ三つと過ぎ、私たちの順番が近づいて来ましたが、一向にツグオ君の姿が見えません。ツグオ君がいなければ、劇の格好がつきません。委員であった私は、やむなく彼の家まで呼びに行くことになりました。それまでツグオ君の家に行ったことはありませんでしたが、大体どこに住んでいるかは知っていました。順番まで時間はあと少し。とても寒い日だったけれど、必死に走りました。

「バタヤ部落」という言葉は、現在ではほとんど耳にしなくなりましたが、彼が住んでいたのはそうした地域の中でした。現代なら資源回収業という体裁の良い表現もありますが、当時そのような言葉はありません。決して大きな集落ではなく、道を隔てたすぐ隣の広い空き地には新興の団地がどんどんと開発され、古くからあった住宅街とのほんの狭間の一角にそれはありました。集めた廃品の屑がむき出しの地面に散らばる狭い土地に、これまたあり合わせの材木とベニア板を張り合わせた2階建ての建物がそこには建っていました。もっとも2階建てと言っても、下は何も無い空間で、その上にはどう見ても人が住めそうもないバラックに過ぎませんでしたが・・・。

○○君のお家はここ?と住人らしき人に質すと、黙って上を指差しました。どうやら彼はその2階に住んでいるらしい。早速、下から「ツグオ君」と呼びましたが、返事がありません。

もう一度はっきりと「ツグオ君」と大きな声で呼びかけました。・・・

それでも返事がありません。仕方なく2階に上ってみることに。ミシミシと軋む木の階段を上ると、家と言うよりはただ何も無い薄暗い空間でした。部屋の扉も何もありません。ジッと目をこらすと、その空間の隅の方に古畳が3枚ほど敷かれており、そのまた隅っこの方に暖房も何も無い所で人がうずくまっているではありませんか。「ツグオ」君でした。

「どしたん?」 

ツグオ君はしばらく黙って私の顔を見ていました。もう一度「何で来なかったん?」と問い質すと、ツグオ君はいかにも困った顔をしてポツリと答えました。

「あんな・・・今日のアレ、お菓子代として50円持って来い言うとったやろ。お金ないねん・・・。」そう言うのが精一杯で、うつむいたままそれ以上言葉を発しようとしません。

その時、ツグオ君に親や兄弟がいたのかいなかったのか、子供だった私には知る由もありません。けれども、たった50円のお金を払うことが出来ずに学校に来ることをためらったツグオ君のその姿は一生忘れません。

同じく言葉を失った私に出来ることは、ただ一つしかありませんでした。気を取り直した私は、
「そんなお金のことなんか、いいからいいから。とにかく学校に行こう。みんな待っているんだから」と、堰きたてるようにツグオ君の腕を引き、再び学校まで走ったのです。

学校に着くと、もうすぐに私たちの順番でした。打ち合せの時間もなく、ハアハアと息をつきながら劇が始まったものの、ツグオ君はすっかり自分の役のことは忘れ、立ちん坊状態。結局それなりに一生懸命練習した私たちの劇は、惨憺たる状態で終わってしまいました。

冷静に考えてみれば、彼の貧しさもさることながら、転校生としてほとんど記憶も思い入れもない劇に、ツグオ君の気持ちを確かめることもなく無理やり引っ張り出した私たちの愚かさに気が付いたのは何年も経ってからのことでしたが、後悔先に立たずです。


[後日談]
ツグオ君は卒業してまもなく、みんなと一緒に地元の中学校に進学しましたが、わずか数ヶ月の後、また何処かに転校してしまいました。まるで風の又三郎のように、ほんの短い間だけ私たちの前に現われたツグオ君。今頃元気でやっているかな。薄暗いバタヤ部落のバラックの中で見せた寂しそうなツグオ君の顔と、苦い苦い劇の後味が、1月の寒い朝を迎える度に思い出されます。



フランスのパンフルート演奏家J.C. マラ(Jean-Claude Mara)とハーピスト、M. シグモン(Magali Zsigmond)のコラボレーション「Allegoria (おとぎ話)」を聴いていると、幼い頃の数々の思い出が次々と脳裏をよぎります。女子パウロ会から発売されている珍しいCD(FPD-037)です。マラの自作曲が中心のこのCDに収録の曲名が、表題の他、「透き通る波」「永遠」「心のままに」「無頓着」「うちあけ話」そして「楽人の別れの言葉」などなど。まるでため息のように聴こえるパンフルートの響きと、私たちの秘めた想いをそっと包んでくれる柔らかなハープのメロディー。いずれの曲も深い郷愁を誘われると共に、魂が深奥から揺さぶられます。


Mara2


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ラブストーリー
- 2008/01/19(Sat) -
LoveStory6



パッヘルベルの軽やかなカノンのメロディーに乗せて、その母娘二代に渡る偶然と宿命の純愛物語は始まりました。


開け放した窓から一陣のそよ風が舞い込んだ時、娘ジヘは旅行で留守中の母ジュヒが箱に大事に収めて、時折読み返しては涙していた古い手紙の束を思わず開いて読んでしまいます。その手紙は、母の初恋の人ジュナから(二人は偶然ある夏休みに都会から田舎に遊びに来て出会い、その後都会に戻ってからもプラトニックに互いを想っていた)、二人がそのような間柄であったとは全く知らない友人テスに頼まれて、やむなく彼女への想いを込めて代筆して彼女宛に送られたものでした。

やがてテスは、ジュナとジュヒが彼の知らないところで付き合っていたことを知り、自殺未遂を図ってしまいます。そしてこのことに罪の意識を感じたジュヒは、ジュナを愛しながらもそれ以上踏み込むことをためらい、次第にジュナから遠ざかろうと決意します。ジュナは苦しさの余り、とうとうベトナム出征に志願し、最前線の激しい戦闘の中で強烈な爆撃がすぐ目の前に着弾・・・。

一方現代のジヘ。彼女は、同じ演劇サークルの先輩サンミンを心ひそかに慕っていましたが、これまたサンミンを慕う友人から彼宛へ代筆メールを頼まれ、まるで自分の気持ちを込めるかのように代わりにメールを送り続ける毎日を過ごします・・・。


60年代後半と現代。2つの時代を隔てた大きな社会変化を縦軸に、母と娘(ソン・イェジンが一人二役を演じています)の切ない程に純愛エピソードを横軸として、すべての出来事は偶然のようでいて、実は深いつながりがあって起こっていることであることを見事に描いています。クァク・ジョヨン監督の「ラブストーリー (原題はThe Classic)」(2002年制作、日本公開は2004年)。韓国映画の中でも屈指の恋愛物語として、必ずや映画史にその名を留めることでしょう。男性女性を問わず、誰にでもお薦めできる名作です。ただしハンカチをお忘れなく。


LoveStory7



まだその映画を観ていらっしゃらなくて、どんな作品なのか気になるというお方は、どうぞ下に掲載の動画をご覧になって下さい(ダウンロードに若干時間がかかります)。またDVDでしたら、監督が各シーンに込めた特別の想いと工夫がセリフとは別の字幕スーパーとして収録されており、さりげない言葉ながら彼のストーリーテラーとしての実力と作画手法の練達さに舌を巻くばかりです。

http://jp.youtube.com/watch?v=dZsxRZk1qiU
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土の中から生まれた音楽
- 2008/01/14(Mon) -
Tan5



自分は一人っ子だとずーっと思っていたら、実は兄が2人、姉も2人いたと大人になってから知らされたら、さぞや驚くことでしょう。しかも姓すら、本当は違うと言われたら・・・。

父親はそのことを長い間隠し続け、母親が老齢になって病いを得、父親自身も残された時間があまり多くないことを知った時、いよいよ子供に真実を話す時が来たと悟ります。

父の名前は陳志平、子供の名前は陳港生。しかし、それは再婚した妻の姓「陳」を名乗った仮の名前でした。港生の兄2人は遥か以前に癌で亡くなった先妻の子であり、姉2人は夫を爆撃で亡くしていた後妻の連れ子だと父から聞かされます。

日中戦争の只中から、太平洋戦争直後の中国共産党による国民党追放にかけての激動の時代です。国民党軍人の下で雑用をこなすことで糊をすすいでいた父志平は、赤軍に捕まることから逃れるためには、2人の子を本土に残し香港へと脱出する他はありませんでした。妻もまた生き伸びるために、2人の子供を中国に残し、自分を救ってくれた新しい夫を追いかけて、香港へと命からがら逃げ出しました。

香港で二人は再会し、かつかつの貧しい生活の中、やがて2人の子供港生を儲けました。しかし、運命の歯車はまたまた二人に試練を課してしまいます。父志平は外交官の館で働く使用人だったのですが、主人がオーストラリアの首都キャンベラに転勤となったのです。こうして港生が8歳になった時、技芸学校(香港の俳優養成学校)に預けられ、両親はそのままオーストラリアへと旅立ってしまいました。港生が8歳から学校卒業までの10年間、ただ毎月幾ばくかの仕送りがされるばかりで、親子は顔を会わせることすらありませんでした。

再会は卒業時、18歳になった港生は仕事らしい仕事も香港では見つからず、已む無くオーストラリアで大使館の調理人として働く父の下へと移住します。そこで知人の中華料理店で下積みの仕事をすることになりました。

港生に大きなチャンスが訪れたのは、そんな下積み仕事に明け暮れる20代のある日のことでした・・・。



このような港生の半生の記録、と言うよりもむしろ父志平の波瀾万丈な生涯の記録と言った方がよいドキュメンタリー作品が、メイベル・チャン監督による「失われた龍の系譜 Traces of a Dragon」(2003年制作)です。父親が長い間実子にさえ封印して来た本人とその妻および本土に残された兄姉たちの真実の姿が、40年余りを経て初めて明かされて行く物語は、多少本人による脚色があったにせよ、数々の資料映像と共に極めて感動的と言う他はありません。

父の本名は、房道龍。子の名は房仕龍。もっともそうした名前より、芸名ジャッキー・チェンという方が誰にでも馴染みのある名前でしょう。ジャッキーは、どんなに危険なシーンでもCGやスタントマンを使わずに自らが実演することと、映画の興行で得た資産の大半を多くの慈善事業や公的機関に寄付し続けていることは知る人ぞ知る事実です。彼の父親ゆずりのユーモア精神と人間味あふれるキャラクターの蔭に、このような余人の測り知れない苦労があったのですね。冒頭および以下に掲げる写真は、キャンベラにあるオーストラリア国立大学の医学校を撮影したものであり、寄付者名の中に確かに「Jackie Chan」の名前が見えるのがお分かりになるでしょうか。


Tan6



1978年中国の湖北省で約2400年前のある貴族の陵墓が発掘されました。その墓の中から、数々の副葬品と共に、大小125個の銅製の鐘が出土されたのです。これらの銅鐘はおそらく儀式における楽器として使われたものと推定されています。

1997年の7月1日、香港は南京条約によりアヘン戦争の代償としてイギリスに租借されていましたが、条約通り100年間の租借期間を終えて中国へと返還されました。これを記念すべく中国の作曲家、譚盾(Tan Dun, 1957-)が委嘱されて作られた曲が、「交響曲1997-天・地・人」です。

児童合唱とチェロ独奏(ヨーヨー・マ演奏)を伴い、中国および香港の管弦楽団が共演し、作曲者自身が指揮した演奏(Jas Hennessy&Co SK63368)は、この歴史的イベントを飾るにふさわしい全曲72分余りの大作です。「グリーン・デスティニー」「英雄」の映画音楽(いずれも譚盾が担当)の美しさに加え、ベートーヴェンの第9交響曲「歓喜の歌」の断片も現われ、大地を揺るがすパーカスの迫力がとりわけ凄まじく、単なるイベント用として一度使われれば御用済みとするにはもったいない程に感動的で聴き応えのある曲に仕上がっています。注目すべきは、発掘された銅鐘が使われていることで、中国人民が何代にも渡って受けて来たであろう全ての苦難を鎮めるように厳かに鳴り渡ります。


Tan3
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攻防の後に思ふ
- 2008/01/12(Sat) -
Jolivet6



独立以来40年余り、内乱と貧困に喘ぎ続けるアフリカ諸国の中で稀有な安定を示してきた国が未曾有の危機に直面しています。昨年末に行われた大統領選挙の結果が選挙管理委員会より発表された途端、各地で暴動が起こる大混乱に陥っているのです。

原因は、予備調査では現職大統領をかなりリードしていたはずの野党最有力の候補者が、最終的な選管の集計で僅差の2位に終わったという結果が発表されたため。暴動は開票作業に不正があったに違いないとする抗議行動の表れでした。この暴動には、単なる現政権の政治に対する不満だけではなく、他民族社会で成り立っている同国の中で、最も人口の多い第1民族キクユ族(現大統領はここの出身)と2番目に位置する民族ルオ族(対立候補者はこちらの出身)間の潜在的対立がからんでいます。

アフリカ連合議長クフォー(ガーナ大統領)氏の仲介により、アナン前国連総長を調停委員会の座長として両候補者が対話することにほぼ合意が得られたそうですが、両者の主張には大きな隔たりがあるのが現状です。こうした中、現職大統領は今月10日に新閣僚を発表。17人中15人までを与党関係者(同時に行われた議会選挙では与党は大敗し、日本でもお馴染みの「もったいない運動」のマータイさんも落選しています)で占め、野党からはたった2人しか指名しないというあからさまな強権政治を発動しようとしています。

パキスタンの大統領選挙にも言えることですが、こうした暴挙が平気で許されるような政治環境が続く限り、いつまでも国際社会からの信頼は受けることが出来ず、最終的には国土と人心を壊滅的に荒廃させることを、国の指導者は強く自覚しなければなりません。少しでも早く事態が沈静化し、被害者の拡大が防止されることを願うばかりです。


こうしたことは、途上国にばかり限ったわけではありません。我が国においても昨日国会において、「新テロ特措法」が参院では否決され、衆院に戻って再可決され、成立しました。与野党の攻防は、単に時間的に早いか遅かっただけで何ら事の本質を変えることは無かったように思えます。確かに票の不正という問題こそありませんでしたが、国会議員の中で一体どれだけの議員たちがこの法律を真剣に吟味し、その是非を問うた結果であるのかは極めて疑問です。

以前こちらの記事でも述べましたが、「テロ対策」という一見誰も異論の唱えようのない法律の名の下に、また「国際社会の一員としての責務を果たす」という美名の下に、事実上は米国の軍事費用を肩代わりするものであることを、マスコミは何ら報道しようとしませんでした。日本が戦後一貫して米国追随外交の枠から一歩も出られないことを内外に示した今回の採決は、当事者らにはそれなりの理由・理屈があるかと思いますが、長い歴史の中で将来必ずや見直されるべき一コマではなかろうかと管理人は思っています。


のっけから、ちょっと硬いことを書いてしまいました。これも誰かさんの記事に触発されたからかも知れません。ロマンティシズムに溢れる甘々の音楽が大好きな管理人も、時にはガチガチ、バリバリの音楽も大好きなんです。

フランスの作曲家ジョリヴェ(Andre Jolivet, 1905-1974)は、トランペット協奏曲やオンド・マルトノ協奏曲などで知られていますが、活発で情熱的で、しかも前衛的でありながら、聴き手をグイと引き込む力量は並大抵ではありません。

その彼が入魂の作品第3交響曲は、冒頭の国が独立を果たした1964年に作曲されました。弦楽オーケストラのための交響曲(1961年)を除けば、3曲ある中の最後の作品で、最も充実した傑作ではないでしょうか。

もわっとした金管木管群の登場から、たちまちの弦の乱入、そして相互に入り乱れ格闘する第1楽章は、トランペットの悲痛な叫びで突如休戦状態に入り終わります。

第2楽章は夜のしじまの中で様々な妖怪たちの嘆きでしょうか。まるで前日からの頭痛と耳鳴りが少しも引けない翌日の真夜中に悪夢が充満した異様な霧が立ち込めて来ます。

最終第3楽章は、ドラムの強烈なリズムがこれまた官憲の暴力を象徴しているよう。実際、此処かしこに耳をつんざくホイッスル音がすべてを威圧する警官のそれのように響き渡ります。ジョリヴェ自身の指揮による本録音(Institut National de L'Audiovisuel SOCD 81)は、1966年4月19日のシャンゼリゼ劇場における実演を記録したもので、充実の硬派フランス音楽を堪能させてくれる1枚です。同梱のピアノ協奏曲とチェロ協奏曲も同路線の逸品。


Jolivet8

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鉄道員
- 2008/01/07(Mon) -
Howells9


Howells8



暦の上ではまだ松の内でも、既に仕事始めを迎えられた人も多く、そろそろお正月気分も薄れつつある頃合いではないでしょうか。あるいは月曜日から仕事始めという人も・・・。また世の中には、年末年始だからと言って仕事が休みにならない人も少なくありません。いずれにしましても、また新しい年のために、皆さん張り切って行くことに致しましょう。


丁度、この正月休みが明けようとする頃合いが舞台の北国のお話です。


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かつて炭鉱が栄えていた頃は、日に何本もの石炭を運ぶ蒸気機関車が走っていたが、今はわずかに高校生が朝夕の通学のために利用する1両立ての気動車が日に3本走るばかりで、それもこの春には廃線が決定しているとある単線がありました。本線から別れた終着幌舞駅の駅舎には、同じく定年を後3ヶ月後に控えた駅長の佐藤乙松が、いかにも筋金入りの鉄道員らしい実直さでいつもと変わることなく朝夕の気動車の送迎をこなしていた・・・。

乙松には愛する妻との間に娘が一人生まれていたのだが、隙間風が吹き込む駅舎事務室の片隅で起居する環境が災いしたのか、風邪をこじらせて生後2ヶ月を待たずして早世させてしまっていた。不幸というものは、ところ構わずやって来るもののようだ。いや、むしろまるでその方が苦しみが柔らぐであろうと言わんばかりに続けてやって来ることがあるらしい。最愛の妻もじきに病いを得て思いの外の早さで他界し、以来乙松はただ独り幌舞駅を守り続けていたのである。

三が日も過ぎたある日の夕刻、乙松は真っ赤なランドセルを背負った小さな女の子がセルロイドのキューピー人形を手にして駅舎の改札口辺りで遊んでいるのを見かけたが、乙松相手に泊り掛けで積もる話でもしようと久し振りに気動車でやって来た旧友と話込んでいる内に、その子の姿は見えなくなってしまった。

旧友と互いに冷や酒を酌み交わし、眠りについたその晩のことである。柱時計が午前零時を打ったその時、乙松はふと出札口に人の気配を感じて眼を覚ました。急病人でも出たかとそっと起き出すと、そこには昨晩の女の子に似てはいるものの、もう少し大きい小学6年生か中学1年生らしき赤いマフラーを首に巻いたかわいらしい女の子が立っており、下の子の代わりに忘れたお人形を取りに来たと言う。女の子は、ついでにトイレにも寄りたいと言ったので、その間に乙松は缶コーヒーを胸で温め、戻ってきたその女の子に手渡した。それを飲み干した女の子は、乙松の袖を引き、手ぶりで屈めと言う。そして、やおら口うつしでコーヒーを乙松の舌の上に少し流し込んだ。「駅長さんとキスしちゃった」とはしゃいだ女の子は、舞うように改札口を駆け抜けると人形を忘れたまま姿を消してしまう。

旧友が朝の気動車で帰った翌日の午後、雪がしきりと降り始めた。ふと乙松が気が付くと出札口のガラスが叩かれていて、今度は高校生くらいのおさげ髪の若い娘がコートの雪を振り払っていた。どうもゆうべの子供たちの、そのまた上のお姉さんらしい。乙松は、元旦に作ったまま食べきれずに残っていたお汁粉をその娘にふるまった。そうこうする内に、外は時も場所もわからぬ程に激しい吹雪となる・・・。いったいどこの娘さんたちだろうと乙松は考えあぐね、きっと都会に出て行った円妙寺の和尚さんのところの娘さんの子らであろうと一人合点した。

娘は台所にちょっと立つ間にご飯と味噌汁、そして干物と卵焼きと野菜の煮物をあつらえ、乙松に食べてと言う。

「おいしっしょ」
「え......ああ。おっちゃん、なんだか胸がいっぺえになっちまった」
「なして」

乙松は、死んだ妻や子のことを思い、箸を置いて、膝を揃えた。

「おっちゃん、幸せだ。好き勝手なことばっかして、あげくに子供もおっかあも死がせて。だのにみんなして、良くしてくれるしょ。ほんとに幸せ者だべさや」

その時、電話が鳴った。円妙寺の和尚から今年の供養はどうするかという用件であった。かわいい娘さんに飯まで食わしてもらっていると礼を言う乙松の返事は、相手にはとんちんかんで伝わらない。娘も誰も帰って来てはいないと言う。乙松は机の上のセルロイドの人形を手に取って、やっと事の顛末を理解した。それは妻が泣く泣く棺箱に入れた人形であった。


「......おめえ、なして嘘ついたの」

出札口のガラスにうなだれる少女が答える。

「おっかながるといけないって、思ったから。ごめんなさい」
「おっかないわけないでないの。どこの世の中に、自分の娘をおっかながる親がいるもんかね」
「ごめんなさい。おとうさん」

乙松は天井を見上げ、たまらずに涙をこぼした。・・・・・


- - - - -


もうお分かりですね。言わずと知れた浅田次郎さんの「鉄道員(ぽっぽや)」です。多くの方が映画をご覧になったことでしょう。先日の「地下鉄・・・」の記事をきっかけに急に懐かしくなり、仕事帰りの終電車の中でもう一度原作を読みましたが、改めて泣けました。電車にはほとんどお客さんが乗っていなくて、ほっとしたくらいに泣けました。亡き愛児が生きていたら、さもありなんと成長した姿を命日に父に見せ、正にその日、自身も脳溢血で倒れる駅長乙松を演じた高倉健さんの映画も悪くはありませんでしたけれど、こうした作品は本でじっくりと味わいたいと思いました。


1935年、たった一人の愛息を9才で亡くしたハウエルズ(Herbert Howells, 1892-1983)は、その悲しみに打ちひしがれた中で「楽園への賛歌 Hymnus paradisi」を作曲しました(1938年)。前半は逝った者を悼む通常のレクイエムのように進行しますが、彼の悲痛な心の叫びが其処かしこにほとばしる衝撃的な作品です。それだけで無く、後半になってからはその悲しみから必死に立ち直ろうとする意欲が強く滲み出て来ます。彼の最高傑作とも言われる所以です。最終第6楽章「Holly is the true Light」は、まるで天空の雲が静かに消え行くように、ゆっくりと実にゆっくりと遠ざかって終わります。最愛のものを失った者の涙は、それを評する言葉が見つからぬ程に、深く、悲しく、そして美しい。ハレルヤ。


Howells10
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新春の扇
- 2008/01/02(Wed) -
Svetlanov6



皆様、明けましておめでとうございます。

はぁ〜、早いもので、もう2008年も2日ですね〜。
元旦には新春のご挨拶を思いながら、バタバタと仕事が始まってしまいました。。。


さて昨年暮れに始まったフランス音楽の特集。少なくとも数回は、と考えていたのですが、あっという間に年が明けてしまいました。そこで新年にふさわしく2008年がメモリアル・イヤーになる作曲家や作品の特集に切り替えようかと少し調べてみましたら、オリヴィエ・メシアン(1908-1992)が生誕100年。これは都合がよいかと一瞬思いましたが、「トゥランガリーラ交響曲」はもうよく知られているし、年頭早々「世の終わりのための四重奏曲」もなんだし・・・(笑)。と、止めることに。他に有名どころでは、リムスキー=コルサコフ(1844-1908)が没後100周年。この人については、別な機会に取り上げたいと思います。そして100年前は、カラヤンの生年でもありました。う〜む、カラヤンねぇ。


という訳で、本日はあまり年号に捉われず行くことにします。

昨年最後の記事のテーマが「赤い風車(ムーラン・ルージュ)」。その連想から「赤い扇風機」の主を今年最初の記事として取り上げることに致しましょう。

「赤い扇風機」って何だ?と思われた方、いらっしゃることでしょう。実は、これ↓なんです。

Svetlanov3


そう、一昔前にロシア音楽を振らせたら、ムラヴィンスキーか、この人かっていう御大スヴェトラーノフ(Evgeny Svetlanov, 1928-2002)愛用の一品。彼は、手兵のロシア(旧ソビエト)国立交響楽団と演奏する時には、いつもこの赤い扇風機を指揮台に設置して、タクトを振る直前に自分でスイッチを入れるのが恒例だったのです。この事実は彼のファンの間ではよく知られていることなのですが、残されている写真を見ると風が自分に当たるように向いている訳ではなく、指揮中に思わず熱くなる巨体を冷やすためという訳でもなさそう。しかも旧ソビエト製なので、かなり音がするらしい。管弦楽がピアニッシモになるところではブーンっていう音が目立つため、録音会社は何とかこれを使うのをやめて欲しいと懇願したらしいのですが、一向にやめなかったようです。一体何のためにこの扇風機を手離さなかったのか、大きな謎なんです。どなたかご存知な方いらっしゃいませんかね。

扇風機の件はそのくらいにして置き、そのスヴェトラーノフの演奏。ロシア音楽に期待するものをすべて具現した素晴らしいものが圧倒的に多いです。また彼の生涯に渡ってなされた正規およびライブ録音数も並外れた数に登り、カラヤンのそれを上回るとどこかで読んだことがあります(音源1600以上という記述が、あるサイトにありました)。

その録音の多くがMelodiyaなどのレーベルから入手可能でした。また最近では、ソ連邦崩壊の影響でしょうか、Melodiyaの利権が欧米の様々な会社に渡ったり、或いはいわゆる非合法の複製がなされたりで、現在は聞いた事もないようなレーベルからも彼の演奏を聴くことができます。

指揮者としてのスヴェトラーノフの力量は万人が認めることでしょう。ところが、スヴェトラーノフが実は作曲家としてもなかなか大したもので、多くの作品を残していることは、案外知られていません。中には録音されている曲もあり、ロシア音楽のファンの方なら、彼のピアノ協奏曲が出ていることは既知のことでしょう。Dmitriev指揮、St.Petersburg Philharmony Academic Symphony Orchestra演奏のものです。

昨年、驚いたことに彼の作品ばかりを自演した4枚組のCDが出ました。発売元の会社名は、Nina Nikolaeva-Svetlanovとなっており、CD番号は SVCO 001/4〜004/4。どうも未亡人Ninaさんが出したもののようで、大手ショップやアマゾンなどには全く出回っていません。

ざっと曲名を挙げますと

交響曲第1番ロ短調
ヴァイオリンと管弦楽のための詩曲
交響詩「The Red Guelder-rose」
ピアノ協奏曲ハ短調
大交響楽のための「前奏曲」
大交響楽のためのラプソディー「スペインの絵」
ラプソディー2番
ハープと管弦楽のための「ロシアの変奏曲」
交響詩「Daugava」
大交響楽のための「シベリア幻想曲」
(以上、小曲は省略しました)

凄いでしょう!この内、半分くらいの曲は別なレーベルから発売されているものと同一音源と思われますが、残り半分がこれでしか聴くことの出来ないものです。演奏はUSSR State Symphony Orchestra、USSR Radio and Television Large Symphny Orchestra、またはState Symphony Orchestra となっています。いずれも1954〜78年の間に録音されたLPからの復刻と思われ、多少雑音がありますが、その圧倒的なブラスのパワーとすすり泣くロシア節の弦は圧巻の一語。スヴェトラさんに偉そうにふん反りかえられても、「参りました〜」としか言いようのない名演です。ここでお聴かせ出来ないのが、残念至極。。。 万一このボックスをどこかで見かけましたら、是非お買い下さいね。


と何だか罪作りな記事で申し訳ありません。年頭早々から冷や汗かいて、 扇か扇風機がどこかにないかしら・・・。(--;)

どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。m(_ _)m


Svetlanov2
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