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一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

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帰らざる命
Orpheus
Gustave Moreau (1826-1898)画 「Orpheus」 (1865)


またまた尊い命が失われてしまいました。もしかしたら助けることが出来たかも知れないのに・・・。



日々の刺激的なニュースに溢れる日常の中で、きっとこの事件も何時かは人々の記憶の中から忘れ去られてしまうことでしょう。けれども管理人には、幼い子供が大人の身勝手のために死に至らしめられた事件だけは、心の奥底に深く刻み込まれ、忘れようとしても忘れられない滓(オリ)のようなものとしてその悲しみが永く残ります。本当に出来ることなら、もう一度命を蘇らせてあげたい・・・。






ギリシャ神話に登場する詩人オルフェウス。彼は竪琴の名手であり、その持ち前の美声と比類なき竪琴の調べは、野獣であれ森の木々であれ、聴くものすべての耳と心をなびかせる程に素晴らしいものでした。

ある日のこと、彼の妻ニンフ(自然界の精)のエウリディケが散歩中に毒蛇にかまれて世を去ってしまいます。突然の死に嘆き悲しんだオルフェウスは、愛する妻を取り戻すため冥界に下りることを決意します。そしてやがて冥界に到達した彼が奏でた音楽は、案の定、冥府の番犬ケルベロスを始めとして地獄のあらゆる住人たちを魅了しました。

その美しい調べを聴いて、あまりにオルフェウスが可哀相と考えた冥界の神ハデスとその妻ペルセフォネは、地上に出るまではけっしてエウリディケの顔を見ないという約束の下に彼女を連れ戻すことを許しました。しかし、喜び勇んで妻を従えて地上へと急いだオルフェウスは、あと一歩というところで誘惑に負け、つい思わず後ろを振り返ってしまいました。そのため、エウリディケはふたたび冥府へと落とされ、永久にそこから出ることが出来なくなってしまったのです。

オルフェウスは、その後数々の女たちから求愛を受けましたが、妻を慕うあまりそれらをことごとく退けていました。ところがあまりにつれない素振りに、今度は逆に女たちから恨まれて、最後には八つ裂きにされ、首も竪琴も川へ投げ捨てられてしまいました。



死の悲しみと生きる喜びを音楽化した交響詩「死から生へ From Death to Life」は、イギリスの作曲家パリー (Sir Hubert Parry, 1848-1918)が晩年に書き残した傑作で、本曲は「死」 (Via Mortis) と「生」 (Via Vite) の2部から成る全曲演奏時間17分程度の管弦楽曲です。前半と後半の対比が実に見事。パリーは、エルガーが英国音楽復興の旗手として世界的に有名になる直前のイギリス音楽界にあって、チャールズ・ヴィリャーズ・スタンフォードらと共に知る人ぞ知る作曲家ですが、意外に活動の期間は長く、20世紀初頭の黄金期にまで作品を発表し続けています。19世紀までの作品は、時にドイツ音楽とりわけブラームスの影響が強過ぎ独自性に欠けるという批判を耳にします。ところが、なかなかどうして。この曲などは十分に個性的で、かつ感動的な作品と言えましょう。それにしても、ChandosもCDカバーのデザイン選定には手間暇をかけているなぁと改めて感心致します。(CHAN 6610)


Parry1




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バントックの「エニグマ(謎)」
Arcadia
Nicolas Poussin (1594-1665)画 「アルカディアの牧人たち」


直前の記事でご紹介しましたように、グランヴィル・バントックは自作「異教徒交響曲」に副題として‘Et ego in Arcadia vixi’と書き添えました。彼は生地こそロンドン市内ですが、当時名の通ったスコットランド出身の外科医の息子として生まれ育っています。従ってバントックは血脈的に言えば、イギリスというよりスコットランド系の音楽家なんですね。家庭の教育環境は当時としては申し分のない方と思われ、ラテン語はもちろんのこと、ギリシャ語から果てはペルシャ語に至るまで異国の言語や文化にも早くから通暁していました。結果的に音楽の分野で才能を発揮したため、両親の期待とは違った道を選ぶことになってしまいましたが・・・。

冒頭の絵画は、バロック時代のフランス人画家ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)が1638-1640年頃に画いた「アルカディアの牧人たち」(ルーブル美術館所蔵)です。3人の牧人たちが、墓石の側面に刻印されている碑文を指差しながら傍らの女人に向って何やら尋ねている様子。この画像では生憎よく分かりませんが、碑文はラテン語で‘Et in Arcadia Ego’と書いてあります。‘Ego’とは「私」の意。‘Et’は英語で言うなら‘and’。バントックの副題に追加されている‘vixi’とは、‘vivo(生きている)’の過去形または完了形。つまり「我もまたアルカディアに在りし」というような意味になります。実はプッサンは、本作を画くこと10年あまり以前の1627年に、同じ題名の下に異なった構図の絵画を製作しています(下図参照)。


Arcadia2


プッサンは聖書等を題材にした寓意的な絵画を好んで多数画いており、彼の絵には常に何らか特別なメーセージが込められているとされています。上の絵では、木棺か石棺と思しき箱の上に死の象徴である髑髏が描かれています。一方新しい方の「アルカディアの牧人たち」では、髑髏は消えて墓石だけとなっています。このことから、おそらく主(前画で手前に座っている人物)のその後の姿を画いたものだろうと考えられます。これら2つの絵の相違とラテン語の碑文や描かれた人物たちの表情を元に、古来より様々な解釈がなされています。

最も一般的とされる解釈は、(理想郷と信じられている)アルカディアにも死というものが存在し、何人もそれから逃れることは出来ず、今は墓石の主となって眠っている者が、かつてこの地に生きた証としてこの碑文を残したというものです。しかし、事はどうもそんなに簡単では無さそうです。とある別な解釈によると、このラテン文の文字を前後入れ替えると‘I Tego Arcana Dai (立ち去れ!私は神の秘密を隠した)’となることから、これは聖杯[注*]の場所を示す暗号なのではないかという奇説すらあります。

[注*: 聖杯とは、キリストの血を受けた杯とも、最後の晩餐の時にキリストが使った杯とも言われますが、ヨーロッパではキリスト教の歴史とは別に、いわゆる「聖杯伝説」なるものが民族や国を問わず大陸や諸島の各地に言い伝えられており、古来よりその宝探しの物語が数多く存在しています。これが音楽や他の芸術分野において及ぼした影響については、とても一夜や二夜では語りきれない西洋文化史の一大テーマですので、ここでは軽く触れる程度にすることに致しましょう。]



さて、ルーブル美術館・・・聖杯・・・暗号・・・と来れば、皆さんはすぐに数年前世界中で話題となったあの超大型ミステリー「ダ・ヴィンチ・コード」を思い浮かべられるのではないでしょうか。


http://www.sonypictures.jp/movies/thedavincicode/site/home.html


原作の小説、そして映画「ダ・ヴィンチ・コード」共々に、アルファベット文字の入れ替えが暗号謎解きの大きな鍵になっていました。バントックはかつてパリのルーブル美術館を訪れており、当然このプッサンの絵も見ています。しかも「異教徒交響曲」のスコアには、完成の日時をわざわざパリで記入しています。何らかの意図があって副題としてラテン語の文言を入れたことは明らかですが、今となっては謎だけが残ってしまいました。



バントックの死後急速に彼の作品の演奏機会が減少し、忘れ去られつつあったバントックの名前と作品が復権するようになったのは、つい近年になってからのことです。しかしながら彼が活躍していた19世紀末から20世紀初頭にかけては、先輩格として同時期イギリス音楽界の牽引車として大活躍していたエルガーに次ぐ程にバントックの知名度は高かったのです。たとえばシベリウスをイギリスに紹介したのも彼の力によることが大きかったようです。

[管理人注: suomestaさんがコメントされましたようにシベリウスの第3交響曲はバントックに献呈されています。おそらくお礼の気持ちだったのでしょう。またバントックが亡くなった後に設立されたバントック協会の初代会長には、シベリウス自らが就任しています。]


そのバントックに、エルガーの「エニグマ変奏曲」のように謎に満ちた変奏曲作品があることを本日はご紹介致しましょう。


エルガーの「エニグマ変奏曲」が作曲・発表されたのは、1899年の6月半ばのことでした。その曲の持つ美しさと各変奏曲についた副題の謎解きという興味が相俟って、初演後たちまち大きな話題となりました。バントックは、エルガーの「エニグマ」を聴くや否や、自分もそのような変奏曲を書きたいと思い立ちます。丁度それより遡ること3年前の1896年、28才になったばかりのバントックは、とある婦人が招いたお茶会で同い年のHelena F. von Schweitzerという令嬢と巡り会いました。ただでも異国風が大好きなバントックのことですから、このドイツ人の令嬢にぞっこんとなったのも無理はありません。今で言うならお見合いの席での一目惚れですね。結局2年後の1898年に、2人は目出度く結ばれることになりました。

こういう幸福の絶頂にありましたバントック。エルガーの「エニグマ変奏曲」に触発されて、新妻Helenaのための変奏曲を書くことを決定。妻の結婚後のイニシャルとなるHFBになぞらえて、ロ(H)・ヘ(F)・変ロ(B flat)の3音から成るモチーフを使った20分弱の変奏曲をたちまちの内に書き上げ、翌1900年の2月に自身の棒で初演しています。エルガーの超人気作に対抗して新妻の名前を連呼する変奏曲を作ってしまうのですから、いやはや何とも・・・。。。 ^_^;


という訳で、本日お薦めのCDはヘレナ変奏曲(Helena, Orchestral Variations on the theme HFB)を含むこちら(↓)の1枚です(Hyperion CDA66810)。変奏曲だけでなく、同梱の2曲共に実に美しい管弦楽曲ばかりで、R・シュトラウスやワーグナーがお好きな人なら嵌まること間違いありません。


Bantock2


ところで2番目と3番目のヘ音(F)と変ロ音が妻のミドルネームと変人(ん?)バントックの頭文字Bから来ることは分かるけれど、何で最初のロ音がBでなくてHelenaのHになるのか分からないと仰る方がいても不思議はありません。何故だかお分かりになりますか。これを本日の謎1とします。

[ヒント: スペルをアルファベットの音階に当てて曲を作るやり方は、古くはヨハン・セバスチャン・バッハの大作「フーガの技法」が有名です。「フーガの技法」(未完)では、最後のフーガ曲においてバッハの主題がオルガンで壮大に奏されたところで曲は突然休止してしまいます。この部分を書いてバッハは他界、結局絶筆となってしまいました。劇的と言えば、あまりに劇的な終わり方の代表格です。]

謎2は、変奏曲というより、このCDに同梱された3曲の関係です。HyperionはそのCDカバーの絵を含めて、実に絶妙の選曲をしてこの1枚のCDを作り上げています。その繋がりとは何でしょうか。バントックは余程奥様がお気に入りだったようですね。

[ヒント: 日本では美容室の名前によくなっています。キーワードはあのギリシャの女神です。]





アルカディア幻想
Appia1


ローマから南東へ伸びるアッピア街道。レスピーギの交響詩「ローマの松」の第4部「アッピア街道の松」は、ローマ帝国が最盛期を迎えた遥か昔にこの街道を遠くから近づき、やがて堂々たる威容を示しながら進軍するローマ軍団の様子を夢想しながら作曲したものと言われています。今ではすっかり古めいた録音になってしまいましたが、トスカニーニの演奏する「アッピア街道の松」におけるダイナミックな盛り上がりは、並の指揮者では到底及ばぬ歴史的名演奏として何時までも語り継がれることでしょう。

ローマ帝国の勃興から滅亡まで、ローマの歴史についてほとんどすべてを網羅した大著、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の第10巻「すべての道はローマに通ず」に依ると、このローマ帝国成立の礎が現代の眼から見ても賛嘆されるべき街道網と水道網の完備、すなわちインフラストラクチャーの充実化無しには実現し得なかったことが豊富な写真と資料によって見事に解き明かされています。

今日残る街道を見る限り、敷き詰められた石の表面がすり減って如何にもゴツゴツした田舎道に見えますが、これはあくまで年月の経過による磨耗のなせる業。敷設された当時は、中央部が幅約4mの軍馬が通る本道で(2輪や4輪の馬車がすれ違うのに十分な幅)、その両側に幅約3mの人専用の歩道がついており(つまりおよそ10m幅の道であった)、表面は完全に真っ平らになるように敷石がびっしりと埋めつくされていたそうです。その道を作るためには先ず地面をおよそ1mくらい掘り下げ、最下層には排水を考慮して大き目の石を敷き詰め、徐々に小粒の石の層を重ね、最後に表面の敷石を被せ、歩道との間には排水溝まで設けるという念の入り様。こうした街道網が、イタリア国内は言うに及ばず、全盛期ローマ帝国(下図参照)の全土に渡り総延長8万kmにまで及んだというのですから、唖然と言う他ありません。


ローマ帝国


このやがて帝国全土に行き渡るローマ街道網、一番最初に敷設されたのは紀元前312年にローマ中心部(カラカラ浴場付近)から南東方向に伸びるアッピア街道であります。その建設を決定したのは時のケンソル(執政官)であったアッピウス・クラウディウス・カエクス。街道の名前は彼の名前から来ています。

驚くべきことは、アッピウスは街道だけでなく、ローマ東方の山地から湧き出る水源を見つけ、これを市内まで16km以上に及ぶ地下水路を初めて引いたことです。こちらの方はアッピア水道の名で知られ、ほとんどは地下に穴を掘り、どうしても段差の都合で地表に顔を出す必要があるところだけ水道橋をかけて遠方まで水が自然落差で流れるようにしました。市民の生活に欠かせない水を遠くの水源から遥々引いて供給するという、今日の言葉で言えば公共事業を、たとえ征服した属国といえども帝国支配に必須という考え方はかなり確固としたもののようで、ローマ帝国の拡大と共に全土に広められ、北アフリカのカルタゴ(現チュニジア)やスペイン、フランスなどヨーロッパ各地にその遺構が残っています。


水道橋1


ローマ市内にはアッピア水道以後、紀元3世紀の帝国滅亡までに11本の水道が引かれ、その内の何本かは現在でも市民の日々の生活に使われているというのですから、いやはや古代ローマ人たちの実行力というかそのシステムの開発と維持に掛けた技術と熱意には脱帽の他はありません。



その見事なまでの技術力と社会意識を持ったローマ人たちが、自分たちの社会に無いものとして何世紀もの間に渡って憧れ、そして愛し続けた対象、それが古代ギリシャの彫刻や文芸、即ちギリシャ芸術と文化でした。不思議なことに医学の発展に大いに貢献したはずのギリシャ人の間には、あまり衛生的な観念が一般民衆に浸透することはなかったのに反し、ローマ人たちは数多くの浴場を作ったことで分かるように大変に清潔好きだったようです。何本も引かれた水道の水は、飲用だけでなく浴場にその大部分が引かれました。ローマ人たちにとって浴場とは、憩いと社交の場であり、その壁面や庭にはたくさんのギリシャ彫刻を配し、それらを眺めながら一日の疲れを癒すことが市民の日課となっていたのです。

こうした(ギリシャという)異郷への憧れが、やがて理想郷としてのアルカディア(ギリシャのペロポネソス半島内部にある地方名)信仰となります。東洋で言えば桃源郷のようなものでしょうか。イタリア芸術に限ることなくヨーロッパ芸術史の中で、このアルカディア信仰はギリシャ神話を題材にするのと同じくらい重要な役割を演じています。


異郷への憧れを音楽作品として昇華させた例は多々ありますが、イギリスの作曲家バントック(Sir Granville Bantock, 1868-1946)はそうした作品を数多く残した名手の一人です。エルガーが最もイギリスらしさを具現化した作曲家であったのに対し、バントックは異郷・異文化をインスピレーションとして作品を作る達人です。たとえば北方のケルト文化に対しては、ケルト交響曲やヘブリディーズ交響曲などの名作があります。一方、東方への憧れを描いた作品、それが「異教徒交響曲 Pagan Symphony」(1928年作)であり、本日はこれをご紹介します。

ラテン語の副題として'Et ego in Arcadia vixi'を持つ「異教徒交響曲」。副題の意味は英語でいうなら'I too lived in Arcadia'とのことです。演奏時間は約35分前後で、バントックお得意の切れ目なく演奏される1楽章形式の交響曲。これまた朝の霧が晴れつつあるような情景描写から始まり、徐々にドラマが幕開け、曲の中ほどでは異郷すなわち異教の土地に攻め入る様子と思しきドラムの連打が「ローマの松」に全く引けを取りません。戦いの後は、それはそれは実に美しい理想郷のパノラマが眼前に。

バントックという作曲家、イギリス音楽ファンを除いてクラシック音楽ファンの中にいまいち知名度が上りませんが、凡作がほとんど見当たらない管理人一押しのイギリス人作曲家です。幸いにHyperionが彼の代表的管弦楽作品を数枚のCDとして発売しています。異教徒交響曲のCD番号は、Hyperion CDA66630。余談ですが、この会社はジャケット・デザインの選定にあたって相当な素材の調査と吟味を行ってから決めていることは明らかです。ですからCDを手に取り、そのデザインに至った経緯を想像し、その背景を読み解くだけでも楽しく、また実際その作品理解の重要な鍵が得られることが多いですから、管理人はcpoと並んで大好きなレーベルでもあります。

デザインの話は別としても、バントックの異教徒交響曲、後期ロマン派の音楽がお好きな人なら必聴の作品でしょう。指揮者はヴァーノン・ハンドレー。そう言えば、彼は昨年9月に他界してしまいました。その直後に名指揮者ヒコックス氏も亡くなってしまいましたから、2008年は現代イギリス音楽界の2大指揮者が共に逝去した年です。ヒコックス氏については昨年一度記事に致しましたので、この機会にハンドレー氏にも哀悼の意を捧げたいと思います。本日紹介のCD末尾に同梱の「Two Heroic Ballads」小品2曲は、2人のHeroのためのバラードとも成りましょう。


Bantock1

突然ですが・・・
ラム1


当ブログを訪れて下さるお客様に感謝して、管理人のプロフィール写真をご紹介します。




・・・ウソ・・・




前の記事を書いてから、「フニクリ・フリクラ」のメロディーが頭から離れません。 (^ ^;


困ったことに、それがいつの間にやら、こちらに変わったりして・・・ (^ -^;


http://www001.upp.so-net.ne.jp/asobinohiroba/page085.html


皆さんも、さあご一緒に! 


♪鬼のパンツは いいパンツ つよいぞ つよいぞ~♪






あ、遊びですよ。 あ・そ・び。


この替え歌、今では誰が歌い広めたか分からないくらいによく知られていますけれど、もともとはNHKの「おかあさんといっしょ」という番組の中で歌われました。「フニクリ・フニクラ」が日本で広く知られるようになったのは、同じくNHKの「みんなのうた」で紹介されたからだそうで、テレビの影響は音楽面でも凄かったんだなと改めて驚かされます。「鬼の・・・」の方は、放映された当時作詞者不詳とされていましたが、現在では歌っていた田中星児さんが作詞をしたというのが通説なのだとか・・・


ホントのプロフィールは、こっちなのだっちゃ!


ラム2



なんで鬼のパンツが決まってトラ柄かって言うと、昔から鬼門と言えば東北の方角。昔の呼び方で言えば、十二支の始まりの子(ね)が北を指しますから「丑(ウシ)・寅(トラ)」の方角となりますね。鬼にはウシのように角(つの)がありますので、それで鬼はトラ柄のパンツを履くイメージが定着したんだって。



フニクリ フニクラ
Sakurajima1


イタリア中部では地震が起こり多数の死傷者が生じた模様。一方、鹿児島では桜島が近年にない大規模の爆発を起こしたとのニュース。共に火山国、こればかりは避けることが出来ません。せめて被害が少なくて済むことを祈るばかりです。

イタリアの火山と言えば、ヴェスヴィオ火山。西暦79年8月24日に起こったとされる火山の大噴火によって、その麓近くにあったポンペイの町は人々が逃げる間もなく灰に埋もれてしまいました。当時の町の人口1-2万人から推定して、そのほぼ全員約2万人が犠牲になったと言われています。18世紀に発掘が開始され、現在ではその主要な部分が公開(有料)されています。


Vesvio1


近代的な意味の旅行会社・代理店としては史上初めて、1841年にイギリスで創業されたトーマス・クック社は、1880年に当時休火山と思われていたヴェスヴィオ山の山頂までケーブルカー(フニコラーレ)の登山鉄道を敷設。ところが会社が期待した程に当初の利用客が伸びず、そこでトーマス・クック社は宣伝用の楽曲をイタリア生まれで、その前年にロンドンに移住して来たばかりのルイージ・デンツァ(Luigi Denza, 1846-1922)という音楽家に依頼しました。この時に作られたPR曲が「フニクリ・フリクラ」です。という訳で、この曲は世界最初のコマーシャル・ソングとしても知られています。


フニコラーレ1



さて、「赤い火を吹くあの山へ~♪」で始まる日本語の歌詞については皆さんよくご存知でしょうけれど、ナポリ語で書かれた原語の歌詞は少々内容が異なっています。以下に示しますように、(愛の告白がなかなか出来なくて)もやもやした気持ちをどうしたらいいか困った青年が、彼女をヴェスヴィオ山に誘ってその勢いで一気に告白しようという意味だそうで、1番と2番は問かけとその答という形式になっています。


Funiculi-Funicula フニクリ・フニクラ

Aieressera, Nannine, me ne sagliette,
tu saie addo? tu saie addo?
Addo 'stu core 'ngrato cchiu dispiette
farme nun po! farme nun po!

Addo lo fuoco coce, ma si fuje
te lassa sta! te lassa sta!
E nun te corre appriesso, nun te struje,
'ncielo a guarda! 'ncielo a guarda!

Jammo, jammo, 'ncoppa, jammo ja',
Jammo, jammo, 'ncoppa, jammo ja',
funiculi, funicula!
funiculi, funicula!
'ncoppa, jammo ja',
funiculi, funicula!


夕べばあや[注*]がボクをどこかに登らせてくれたんだけど
それはどこか知らない?(それはどこか知らない?)
どこに行ったらこのもやもやした気分を
晴らせるのかな?(晴らせるのかな?)

火が燃えている所はどう?行きたくないなら
置いてくけど(置いてくけど)
それは近くを走ってはないけど、飽きることはない
さあ、空を見てみて!(空を見て)

行こう、行こう、上に行こう、行こう、行こう
行こう、行こう、上に行こう、行こう、行こう
フニクリ・フニクラ、フニクリ・フニクラ
上に行こう
フニクリ・フニクラ

[注* ここで「ばあや」と言っているのは、子守りのばあやのこと。しかし文字通りのお婆さんではなく、むしろ若い子守人と考えた方がよいでしょう。]


今では世界中によく知られているメロディー。これを初めて聴いたリヒャルト・シュトラウスは交響的幻想曲「イタリアから Aus Italien」(1886年作)を作曲した際に第4楽章でこの旋律を引用しました。彼としてはてっきり古くから伝わる民謡に基づく歌だと信じ込んで引用したのですが、デンツァから著作権料を支払うように請求され、以後この曲を演奏する度にR.シュトラウスは彼に著作権料を支払わねばならないというオマケがついてしまいました。


このフニクリ・フニクラのメロディーをR.シュトラウスよりも鮮烈に活かした楽曲があるのをご存知でしょうか。イタリアの作曲家アルフレード・カセッラ(Alfredo Casella, 1883-1947)が作った「狂詩曲イタリア Italia, Rapsodia for Orchestra」(1909年作)という演奏時間19分ばかりの管弦楽曲です。バロック時代からイタリア・オペラ全盛の時代が終わる20世紀初頭まで、豊富な人材を抱えたイタリア音楽界。ヴェルディ、プッチーニの後に続くイタリア作曲家の名を挙げよと言われたら、案外名前を挙げるのが難しいのではないでしょうか。おそらくすぐに気がつくのは、レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879-1936)。ちょっとマニアックなところで、先日取り上げたマリピエロ、それからダッラピッコラなどでしょうか。

カセッラは13才でパリ音楽院に入学。その後、長らくパリに滞在しています。音楽院ではフォーレなどに作曲を師事、その結果ラベルやストラヴィンスキーらとの交流がありました。当時斬新さで名を馳せた名作曲家らの管弦楽法を身近かに体験していますから、その方面でかなり大きな影響を受けたことは想像に難くありません。第1次世界大戦以後イタリアに戻り、マリピエロらと共に近代イタリア音楽の普及に力を注ぎます。

今日ご紹介する「狂詩曲イタリア」は、レスピーギのローマ三部作にも匹敵する鮮やかなオーケストレーションが特徴です。途中で意気高らかに奏されるフニクリ・フニクラの引用効果に関してだけ言えば、オーケストレーションの達人R.シュトラウスも完敗の快作と言えましょう。CDはARTS から出ている1枚(ARTS 447211-2)がお薦め。ロッシーニ原作レスピーギ編曲の佳作「風変わりな店」と共に、この時期のイタリア管弦楽史を十分に埋める名作2曲を同時に聴くことが出来ます。


Casella1
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