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一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

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南仏バカンスの旅(5)-現役貴族の館
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南仏を旅行中に、現役で貴族の身分をお持ちの方のお屋敷に招待されるという幸運がありました。
あっ、実は管理人だけが招待されたのではなく、仕事関係のグループの1人としてです。一般の方に公開されているわけでは御座いませんので、場所や招待者のお名前は伏せさせて頂きます。


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南仏と言えば、ワイン。『プロヴァンスの贈り物』ではありませんが、このお屋敷のご主人もワイン農園を経営されており、自社製ワインが販売されています。乾いた落ち葉に早くも秋の訪れが感じられました。以下は、屋敷の中で限られたお客様にだけ公開しているお部屋の写真です。主人ご夫妻は同じ建物内にお住まいですが、プライベート空間は非公開でした。悪しからず。


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タペストリーって、単独で見るとそんなに感動しないけれど、こんなお部屋に飾ると映えるのですね。


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猟銃のコレクションは、さすがに現役貴族のお屋敷です。


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とてもお上品な寝室。こんなお部屋で寝てみた~い。


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そしてこちらが、ご主人の奥様。


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ライトアップされたお屋敷は、正にシャトー(お城)の風格です。まるで100年も200年もタイムスリップしたみたい。


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ディナーのメインディッシュをパチリ。あのような場ではちょっとマナー違反ですが...。とても美味しかったです。ご主人様と奥様に、ここで深く感謝の辞を。C'est tres tres delicieux. Merci beaucoup!







というわけで、その晩はこの上なく贅沢な夢のひとときを過ごさせて頂きました。こんな雰囲気に合う音楽は、もうこれしかありません。フランスの作曲家フォーレ(Gabriel Faure, 1845-1924)の夜想曲集第6番変ニ長調Op.63。(1901-2年頃作)





フォーレと言えば、天上の美しさに満ち溢れるレクイエムが有名です。ところが、彼の真髄はどちらかと言えば室内楽とピアノ独奏曲にあり、それらの価値についてあまり広く知られていないように思われます。夜想曲集は彼の全生涯に渡って作曲されており、全13曲。この第6番は、初期のメロディー中心のサロン的音楽から中・後期にかけて渋みと深みが格段に増した内省的音楽へと変貌する端境期に作曲された傑作です。第5番との間には約10年のブランクがあり、フォーレの心境の変化が如実に表れています。後に弾き出し部分の名旋律を一体どのような時に思いついたのかと問われたフォーレが、「シンプロン・トンネル(注*)を通り抜けている時」と答えたのはいまや伝説ともなっています。

[注*: アルプス山脈下を突き抜ける全長19.8 kmの鉄道トンネル。1906年に完成ですから、作曲当時まだ開通していませんでした。]


CDとしては、管理人が一番最初に全集を耳にしたこともあり、次に掲げるジャン・ドワイヤン氏の演奏がテンポ、ピアノ(ベーゼンドルファー)の音色、深み、いずれの点でも一番しっくりくるように思います。


FaureNocturn
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ローマ法王英国訪問
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日本では、ほとんどニュースらしいニュースとして取り扱われなかったローマ法王の英国訪問。4日間の日程を終えて、9月19日無事バチカンに帰還されました。BBC World Newsでは、法王ベネディクト16世がイギリス滞在中に出席した数々の行事をかなり長時間ライブで放映していました。


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キャメロン首相以下、英国のトップ・リーダーたちは、法王に完全にアテンド。法王も今回の訪英を実りある歴史的訪問と自賛。暖かく迎えてくれた英国国民に深く感謝を述べて帰途につかれました。


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このニュースの一体どこが歴史的なのでしょうか? 法王は世界各国を訪問されているでしょうから、英国もその一つに過ぎないのでは?
と、仰った方、ちょっと簡単なクイズを交えながら、世界史と地理の復習をしてみましょう。


Q1 今回、法王が訪問に使った航空会社は次の内のどれでしょう?

   英国航空  エールフランス航空  アリタリア航空  バチカン航空


Q2 バチカンの国旗は次の内、どれでしょう? 

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Q3 イギリスで最大の信者数を誇る宗教と言えばキリスト教で、特にプロテスタントが多く、次にカトリックとなります。 
   これは正しいでしょうか、それとも誤りでしょうか? 違っているとしたら、答えは何でしょう?








実は、ローマ法王が公式であれ非公式であれ英国を訪問するのは、16世紀にイングランド王ヘンリー8世(1491-1547)からエリザベス1世(1533-1603)の時代にかけて時の権力者たちがローマ教皇庁から離れて独立独歩の道を歩み始めて以来、『初めて』の出来事なのです。

それまでイングランド王家は、代々皆熱心なカトリックの信者だったのです。ことは1509年、ヘンリーが父の死後即位してヘンリー8世になってから急変することとなりました。ヘンリーは様々な分野で優れた才能を発揮した、今で言うならマルチタレントな文化人で、ラテン語、スペイン語、フランス語など外国語に達者であるばかりでなく、舞踏や馬上槍試合の名手でもありました。更には、音楽にも造詣が深く、彼が作曲したとされる合唱曲の楽譜まで残されています。

そのヘンリー8世、最初の奥さんは、兄アーサーと結婚していたキャサリンでした。兄の急死後、まだ喪も開けていない内に6才年上のキャサリンと結婚したアーサーは、その当時18才。彼女との間にはメアリー1世が生まれています。結婚生活は1533年まで続きましたが、キャサリンの侍女であったアン・ブーリンと懇ろになり、心変わりしたヘンリー8世はキャサリンとの離婚を時のローマ教皇クレメンス7世に願い出ました。ところがカトリックはご承知のように昔も今も基本的に離婚を認めませんから、これを許可しませんでした。そこでヘンリー8世が取った行動とは、イギリスにおける宗教をローマ・カトリックとは独立の、いわゆる「イギリス国教会」として新たに設立したこと。自身はその頂点に君臨するという過激なものでした。

そうしてアン・ブーリンと1533年にめでたく結婚。彼女との間には、後のイングランド女王エリザベス1世が生まれています。エリザベス1世は、(カトリックが主流である)スコットランド側に推されたメアリー1世と熾烈な権力争いを展開したことは、あまりにも有名。この辺りドロドロの姉妹間の争いは、また別な機会にでも取り上げることに致しましょう。とにかく、ローマと対決してまで漕ぎ着けたアンとの結婚は、わずか3年にして破綻。1536年には離婚するという急展開。離婚後、アン・ブーリンはロンドン塔にて刑死させられ、何ともおぞましい中世の血塗られた歴史がこの後延々と続くことになります。


ヘンリー8世が見初めた3番目の妻は、アンの侍女を勤めていたジェーン・シーモア。ところがジェーンとの間の最初の子供であるエドワードを出産した後、産後の肥立ちが悪くジェーンは死亡。以後、ヘンリーは3人の女性と結婚するも、その内2人はすべて短期間に離婚を言い渡し、5番目の妻であったキャサリン・ハワードはアン・ブーニンの従妹でしたが、これも刑死させています。いやはや、何とも凄まじい...

最後の妻キャサリン・パーとだけは、結婚後3年余りにして今度こそは自分の方が先に冥界へ旅立つという波乱万丈56年の生涯をヘンリー8世は送ったことになります。



ローマ教皇側からすれば、こうした経緯からイングランドを許せる筈もなく、中世から近代を経て現代までヨーロッパ各国間の覇権争いの歴史とも相俟って、イギリスに法王が訪問することは決して無かったわけです。

そんな歴史にも拘らず、何故に今回歴史的和解劇が演じられることになったのか。これは現代政治史の格好な課題の一つですから、ご興味のある方、是非卒業論文などに取り上げてみられては如何でしょうか。





血塗られた歴史とは裏腹に、ヘンリー8世からエリザベス朝にかけた時代、文学・戯作ではシェークスピアが登場し、音楽ではウィリアム・バード(1540?-1623)が活躍。宗教色を越えた多声の合唱音楽の発展と共にリュート音楽の全盛期を迎えるなど、文化・芸術分野における絶頂期が到来しています。

そこで本日の音楽、19世紀半ばに英国やゲルマン系ヨーロッパにおいて大流行したイギリスの作曲家ビンジ(Ronald Binge, 1910-1979)の「エリザベス朝のセレナーデ Elizabethan Serenade」。軽やかなドイツ的舞踏調の本曲は、耳にした途端何人も決して忘れることのないブリティッシュ・ライト・ミュージックの名旋律であり、YouTubeでアップされる度に古き世代の人たちより幼い頃への郷愁を誘われたとのコメントが絶えることがありません。







もう一つおまけです。同じエリザベス朝時代のリズム感に現代的アレンジを加えた作品アルウィン(William Alwyn, 1905-1985)の「エリザベス朝の舞曲 Elizabethan Dances」もご紹介しておきましょう。こちらはNaxosのHPから試聴することが出来ると思います。上曲との共通性がすぐに聴き取れるかと存じます。


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アルジャジーラ - 911に寄せて
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またあの日がやって参りました。9年目の911です。「南仏バカンスの旅」の連載中でしたが、本日はそちらを中断しまして再びこの関連の話題です。

911が米国では日本の119番、つまり火事や救急車を呼ぶ時の緊急呼び出し電話番号であることは、2008年9月11日の記事で取り上げました。結果としてあの事件では多数の消防隊員・救急隊員の方々が亡くなられたのは、何とも痛ましいことでした。また2007年9月11日の記事でもあの日の出来事については取り上げています。

911という数字は、1966年英国航空機空中分解事件の便番号でもあり、妙にいわく因縁のある数字となっています。(誰ですかソフトバンクの新型携帯の機種番号だと言った人は。笑)そう言えば、911はオイラー素数でもあり、ソフィー・ジェルマン素数でもあるという、数学的に極めてユニークな素数でもありました(興味のある方はネットで調べてみてね)。この未だ多くの謎を残したままの911の事件を契機に、米国はイラクとアフガニスタンに対する戦争を仕掛け、確かに時の政権こそ倒潰させることに成功しました。が、それらの結果が現在どうなったかと言えば、皆様御存知の通りです。

イラクもアフガニスタンも、さらに言えばそれ以前米国が介入しようとして結局は失敗、完全撤退した結果、その後手助けしたくとも、最早どの国の援助組織も手がつけられないほどに無政府状態になってしまったソマリアまで含めれば、

アメリカが武力で制圧しようとして一時的とはいえ勝利した国で、平和が保たれているところは1ヶ国もない という事実が残されているだけです。

今日のヴェトナムは、米国との間で泥沼の戦争を経ながらも順調な復興を遂げ、今や日本の新幹線システムを導入することが検討されるまでに(結果としては見送られましたが)発展をしました。しかし、あの戦争では米国は勝利を収めてはいません。イラクでの順次削減撤兵に続き、オバマ大統領はアフガニスタンに駐留する米軍も当初の予定通り削減する方針を打ち出しました。勝利によって期待された効果、すなわち平和の到来が見えて来たからではなく、相次ぐ自爆テロの増加に伴い、自国兵士の死傷者数がうなぎ上りになると同時に、膨大な軍事費の負担が重くなり過ぎた故の事実上の敗退であることは明白です。もっともそうであるとは、口が裂けても認めないでしょうけれど。




実は管理人の新しいお家では、アルジャジーラの英語版放送を見ることが出来ます。このテレビ局はカタールのドーハに本拠地を置いており、24時間連続でニュース中心の番組を衛生放送していますから、中東のCNNだとも呼ばれています。イラク侵攻の前後、ビン・ラディン氏の声明などを独自に入手放映したことで有名となり、ご記憶の方も多いことでしょう。その頃同局は、反米で中東寄りのスタンスを取る極端にアラブ側に偏向したテレビ局であると信じられていました。恥ずかしながら管理人もこれまでそれを信じて疑いませんでした。ところが、実際の番組を見て、実はそうではないことが分りました。


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キャスターはご覧のように英国系白人、しかも飛び切り美人のキャスターを多数重用し、英語は本国以上に分りやすい正統的なイングリッシュ。確かに中東の話題を中心にしていることは事実ですが、それに拘らず世界各地の出来事をいち早く、しかも万遍なく取り上げており、何よりも極めてニュートラルな政治的スタンスに立って様々な出来事を解説しているのです。アラブ礼賛ということは全くありません。むしろ米国的浅薄な民主主義からでは考えられない切り口のニュースが多く、だから見ていて大変面白いし、ためになります。


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ロゴマークが、アラジンのランプのような、算盤の玉のような、あるいは音楽のト音記号もしくはヘ音記号のようにも見えるのはひいき目ってやつでしょうか。(^o^)

実際のアドレスは  http://english.aljazeera.net/  です。



話はちょっと変わって、つい昨日無罪判決が出た障害者郵便悪用事件。検察が提示した証拠なるものが次々と否定されるという、あきれんばかりに強引であった検察調書の作成法。本来最も信頼すべきで、またそうあって欲しかった検察という公の組織が、こうと思い込んだら泣く子も黙る勢いで白を黒とすることが平然と行なわれていたという事実を、私たちは肝に命ずる必要があります。検察側がどう言い訳をしようと、敗退は明らかです。それと同様に、前世紀以降平和の番人として世界に君臨して来た米国が、近年テロ撲滅を大義名分として起こして来た行動の数々が実際に残した結果を眺めるならば、私たちはもう一度冷静になって米国の言い分を吟味調査し、本来正しかった方策は何であったかについて熟慮する必要があることを改めて訴えたいと思います。





それで本日の音楽、Omar KhayyamのRubaiyat。西洋的クラシック音楽ばかりではなく、珍しいアラビア音楽を聴いてみることにしてみましょう。





Omar Khayyamとはペルシャ(現在のイラン)に生まれた数学者・哲学者、また詩人(1048-1131)であり、当時多大な尊敬を集めた偉人として歴史にその名が記録されています。そのOmar Khayyamは、その後18-19世紀になって、ヨーロッパ、とりわけイギリスにおいて再認識され、音楽界ではバントック(Sir Granville Bantock, 1868-1946)が声楽(ソロと合唱)付きのオーケストラ作品「Omar Khayyam」(1906-1909年作)の大作を残すこととなりました。こちらのブログで何度も取り上げましたバントック。異国情緒豊かな曲を多数書き上げた彼の作品群の中でも、CD3枚を要する異色の大曲です。名指揮者ヴァーノン・ハンドレーが世を去る前、この曲をスーパー・クオリティーな録音として残してくれたことに感謝感謝です。つい昨日まで、ある教会でコーランを焼却し続けることを平気で容認してきた西洋キリスト教的社会が、モスレム世界を本当に理解して、真に平和的共存の道を探ることができるのかどうか。音楽の世界とメディアの世界では、少なくとも実現達成した人たちが存在していたのですが...。


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南仏バカンスの旅(4)-法王庁
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中世から現代に至るまで何世紀もの長い間ローマのバチカンに居を構えるカトリック法王は、かつて一度だけその本拠地をローマから国外へ移転したことがあります。1309年、フランス人であった時のローマ教皇クレメンス5世は法王庁(Palais des Papes)を南仏のアヴィニョンに移すことを決定しました。これはクレメンス5世がフランス人であったこともありますが、彼が教皇になるまでに長年続いたローマ・カトリック法王とその頃強大な権力を持ち始めたフランス国王との抗争の結果でもありました。フランス自体がカトリック色の強い国ですが、特に南仏の場合それが強いのは、単にイタリアと距離が近いばかりではないようです。法王庁正門の前に立つと、この建物がやはりカトリック特有の建築様式に則ったものであることがよく分ります。


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法王庁がアヴィニョンに置かれたのは、およそ70年ばかりの間に過ぎません。その間に7代の教皇がこの地で即位を受け、当然のことながら教会の行政職の人々や多数の学者、商人たちが集まって来たために、アヴィニョンの町は経済的にも文化的にも大いに栄えたと言われています。その法王庁、往時は無数の豪華な調度品や絵画などで装飾されていたに違いないのですが、残念ながらフランス革命時に革命軍の兵舎として使われた際にそれらの大半が奪われ、または売り飛ばされ、今日では極くわずかしか残されていません。内部はこんな感じです。


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カトリックの権力が相対的に低下した時分の建物とはいえ、調度品がほとんどない構内を現在の眼で見ると、幾分か寂し過ぎるなぁというのが正直な感想。しかしながら、暗雲漂う空を背景に高い塔上に屹立する金色のマリア像と、その真下のキリスト磔けの受難像(この南仏シリーズ第1回目の冒頭に掲載)を目にした時に、此処はまぎれもなくカトリックの聖地であったことを実感しました。


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法王庁の建物の一番高いところには、何とカフェがオープンされていました。ここでエスプレッソを飲みながら、眼下にサン・ベネゼ橋を眺めるのも一興です。


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アヴィニョンの旧市内はぐるりを城壁に囲まれており、典型的な中世の街並がよく保存されています。だから町全体が世界遺産になっているのも極めて道理です。ざっと旧市街を眺めるには、ミニトレインに乗るのが一番早道かも知れません。管理人は乗り物大好き人間ですから、こういうのを見かけたら、まず乗ってしまいます。(^o^)v


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狭い路地も何のその。よくもまぁこんな所を通り抜けるなぁと感心しきりでした。ミニトレインには法王庁正門前とアヴィニョン駅から歩いて城壁をくぐり抜けたすぐの場所からも乗ることができます。所要時間は約1時間。


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で、一通り街中の観光を楽しんだら、お腹が空いて来ました。一番シンプルなクレープ、crepe sucreを注文。これを食して、この日は大満足です。







法王庁の大伽藍を見学していたら、教会の堂内に響き渡る壮大なオルガンの音色が聴いてみたくなりました。そこで本日の音楽は、1900年から他界する1937年までの長きに渡り、パリ・ノートルダム大聖堂の首席オルガニストを勤めたフランス人作曲家ヴィエルネ (Louis Victor Jules Vierne, 1870-1937) の交響曲です。交響曲といってもオルガンだけの演奏による交響曲。ヴィエルネは生涯に全部で6曲のオルガンのための交響曲を作りました。本日は、その中でもとりわけ壮麗で輝かしい響きを持つ作品、交響曲第1番(1898-99年作)を取り上げます。第6楽章終曲は、こんな感じです。





ヴィエルネは先天性白内障のため、生まれた時から極度の弱視だったそうです。しかし、幼少時より特別な音楽の才能を発揮、努力の末、パリ音楽院に入学しました。そこでオルガニストとして当時著名であったCharles-Marie Widor (1844-1937) の助手を勤めることで徐々に名を上げ、ついにはノートルダム大聖堂の首席オルガニストの職を勝ち得るまでに至ります。上曲はそうした上昇期の絶頂に至る直前の作品で、明るい未来が約束されたかのような栄光のエンディングまで、一気呵成の音の奔流に聴き手は圧倒されることでしょう。(なおこのオルガン演奏は、1955年にノートルダムのオルガニストに就任したPierre Cochereau (1924-1984) によるものです。)


しかしながら、栄光の頂点に登り詰めたヴィエルネは、その後、予想だにしなかった悲劇の数々に見舞われることになります。結婚生活の破綻に始まり、第1次世界大戦では心の拠り所であった弟と息子を相次いで失ってしまいました。その頃まで僅かに見えていた彼の視力は、大戦で傷んだノートルダム大聖堂のオルガンを修復するために行なった基金集めのコンサートを連続するという激務の過程でほとんど失われ、そればかりかオルガンのペダル演奏に最も重要な足まで交通事故で骨折するという不幸の連続。こうした試練の数々が彼の作品に及ぼした影響は、彼がその後書き残した第6番までのオルガン交響曲に逐一と聴き取ることができます。壮麗な響きの中にも、作曲年代が増す毎に苦渋と諦観が入り混じった渋みの強い作品となっており、そんな過酷な運命に抗ってまで作品を完成させた恐ろしいまでの執念と精神力に頭を垂れる他はありません。


1937年6月2日。ヴィエルネは弱り切った身体を奮い起こして、ノートルダム大聖堂における自身第1750回目のオルガン・リサイタルを敢行しました。いつもに増して力を込めて、当日の主要なプログラムをすべて演奏し終わったヴィエルネ。後は、提案された主題に基づく即興演奏を残すばかり。眼が見えなかった彼のために点字で書かれた主題を読み取ると、その即興演奏のために必要なオルガン・ストップをおもむろに選びました。そして演奏を開始しようとした正にその瞬間、ヴィエルネの身体が突然椅子から崩れ落ちました。死因は心臓麻痺であったとも脳卒中であったとも言われていますが、今となっては確たることは分りません。奇しくもヴィエルネが倒れた際に彼の片足が低E音のペダルの上に置かれた形になったため、大聖堂一杯に響き渡る最低音E音の中で絶命するという、オルガニストとしてはこれ以上無い超劇的な死を迎えることになったのは、きっと神の思し召しだったのでしょう。


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南仏バカンスの旅(3)-ヴォークリューズの泉
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まだまだ暑い日々が続いております。皆様に少しでも涼んで頂きたく、本日は画面一杯にマイナスイオンが漂うような画像と音楽を選びました。



アヴィニョンの町から東に向かって約30 km。バスで1時間と少々の距離。今回の旅行で目玉にしていた場所の一つ、ヴォークリューズの泉(Fontaine-de-Vaucluse)です。人口わずか600人余りの小さな村に、毎年100万人もの観光客が訪れるとか。アヴィニョン駅すぐ横のバスセンターからヴォークリューズの村まで日に数本程度出ています。

バスを降りて歩き出すと、先ず出会うのは小さな鄙びた教会。村の歴史の古さを感じさせます。


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その教会を過ぎて、ほんの1分も歩くと突然眼前に広がるのは、この光景!


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澄んだ川水の中に藻が一杯に生えていて、そう、日本で言ったら長野県安曇野にある大王わさび農園の清流を髣髴とさせる風景です(行かれたことが無い方には、黒澤明監督の映画『夢』の中で「狐の嫁入り」のワンシーンと言えばお分かりになるでしょうか)。水量は実に豊富。これだけの水が一体どこから流れてくるのか、目を疑うばかりです。この感動を、もしも音楽で表現したのなら、差し詰めこんな曲となるでしょうか。


リスト (Franz Liszt, 1811-1886) の「巡礼の年 Années de pèlerinage-第3年」から第4曲「エステ荘の噴水 Jeux d'eau a la Villa d'Este」(1877年作)。





リストが晩年、僧籍を取得してからポツポツと作り貯めたピアノ作品集「巡礼の年」。泉にまつわる作品としては、巡礼の年-第1年「スイス」の第4曲「泉のほとりで Au bord d'une source」(1850頃の作)という曲が有名ですが、本日の音楽は、それから更に四半世紀以上も経てから作曲されたリスト最晩年の作品です。本曲を作るきっかけとなったのは、実は彼がローマの東方、約30 kmにあるティボリという町にあるエステ家の別荘を訪れて、その庭園内にある数々の噴水群を見た時でした。敷地内一杯に工夫を凝らして配置された大小様々の噴水群。その水の織り成すきらめきを見事に捉え、若い頃のヴィルトゥオーゾ性の強い作風とも異なって、むしろ後の印象派を先取りしたと言っても良い名品で、特にピアノ弾きの方々には広く知られています。この曲を聴きながら、ヴォークリューズの泉の散策を続けましょう。


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水中の藻の緑が実に鮮やかです。


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鴨も気持ち良さげに泳いでいました。


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川縁りの道を歩きながら、ふと見上げると対岸の山の上には古城が見えるではありませんか。


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せせらぎの音を聞きながら歩くこと30分余り。やがて水流も視界から離れ、ごつごつした岩がころがっているところを通り過ぎると、のしかかるように大きな岩山のふもとに青々とした水面が見えて来ます。この岩山の下から先のヴォークリューズの水が滾々(こんこん)と沸き出して来ているようです。1年の内では春の季節が最も水量が豊富だそうで、管理人が訪れた夏の終わりには、この写真よりももっと水面が低かったです(だから上の写真だけはネットで拾いました)。

来た道を戻って再び村へ。2~3時間もあれば、以上の景色を十分に堪能することが出来ますから、アヴィニョンの町からヴォークリューズの泉まで、十分に日帰りが可能です。観光客の多くは車で訪れているようでした。


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3枚目の写真に写っている川縁りのレストランで注文したピザ。ハーフサイズなのにこの大きさです!
とっても美味しかったですよ。


南仏プロヴァンス地方へ旅行を計画されている方は、絶対にヴォークリューズの泉を外されませんように!



さて、最後はこの音楽で締めくくることに致しましょうか。リストの「エステ荘の噴水」を聴いて強烈にイスピレーションを受け作曲されたと言われているラベル (Maurice Ravel, 1875-1937)の名曲「水の戯れ Jeux d'eau」(1901年作)。ドビュッシー (Claude Achille Debussy, 1862-1917)の「映像」第1集「水に映る影 Reflets dans l'eau」(1905年作)と共に、ロマン派から印象派へと、決して突然変異的にではなく、連続的に音楽が進化したことを示す貴重な証拠であるように思われます。



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