一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

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未知の世界へ(3)
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コロンブス (ca1451-1506) は新大陸に向けて全部で4回の航海を行っています。第1回目はご存知の通り、1492年から1493年に掛けて。第2回目は1493年から1496年まで。第3回目は1496年から1500年。そして最後の4回目は1502年から1504年までですから、後半生の大半をその事業のために費やしたと言えます。その4回の航路を次図に示します。↓


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しかしながら、彼がこれらの航海の先々で起こした所業は、今日私たちの多くがそうと思っている新天地の開拓事業とは大きく異なり、各地の先住民であったアメリカン・ネイティブ(インディオ)の人々に対して、僅かな贈り物と引き換えに黄金を始めとした財宝などを差し出すことを要求するという相当強引なものでした。しかもノルマが達成されなければ、容赦なく先住民たちを残虐に懲らしめることを厭いませんでした。1492年の航海へと出発する前に、スペインのイザベラ女王とはインド到達(コロンブスはインドに到達することを目的としており、彼は死ぬまでそこをインドであると信じていた)のあかつきには、その土地の提督に任命されること、そしてそこから上がる純益の1割を成功報酬として得ることなどを約束させていました。こうしたこともあり、彼の部下の者たち(スペイン軍兵士)は先住民たちが自分たちの言う通りにならなければ彼らを虐殺することも平気となり、時には殺すことを楽しみにさえしていたと言われています。実際、コロンブスらが如何に先住民たちに恨まれたかは、植民のためにと一部の部下の船員たちを現地に残して本国に帰還しているのですが、次に戻った時にはその全員が先住民たちによって殺されていたことからも分かります。こうしたコロンブスの部下たちの悪行や彼の統治能力の不味さは、当然スペイン本土にも伝え及ぶこととなり、コロンブスの処遇は最初こそスペインにおいて大歓迎で迎えられましたが、やがて次々と統治上の権利が奪い取られ、最後の航海を終えてから2年後に不遇の内にコロンブスは生涯を終えることになってしまいます。詳しくはネット上に種々の情報が載っていますので、そちらをご参照下さい。


さて今日、一口に中南米と言いますが、よく見るとブラジルだけがポルトガル語圏であり、その他の中南米諸国はスペイン語が公用語となっています。何故にそうした違いが出来たのでしょうか。


コロンブスの航海の後、スペインは続々と植民政策を進めます。コロンブスの死後、約半世紀後にはメキシコとペルーで相次いで銀山が発見され、拍車が掛かりました。では、何故ブラジルもスペイン語圏にならなかったのでしょうか。実は南米大陸の北辺部分はコロンブス一行によって探訪されており、現在のブラジル領北部に最初に到達したのはコロンブスらと共に出発した3隻の船の内の一つニーニャ号の船長であったビセンテ・ヤーニェス・ピンソン (ca1460-没年不詳) が1500年1月にブラジルの北海岸アマゾン川河口付近まで探訪していました。しかし、当時盛んに船団を新世界に送りこみ互いに覇権を競い合っていたスペインとポルトガルの間には、トルデシリャス条約[*注]と呼ばれる新世界の領土分割に関する取り決めが既に交わされており、これに基づきスペインはその一帯の領有権を主張することが出来ませんでした。

[*注. 西経46度37分より東側をポルトガル領、それより西側をスペイン領とするという取り決めで、当時教皇であったスペイン出身のアレクサンデル6世が自国に有利なようにと1493年に言い出しました。アマゾン川河口は西経50度付近にあり、この僅かな差が結局両国の命運を分けることになりました。正に運命のイタズラと言えるかも知れません。なお、この条約はポルトガル側にとって不満であり、フェルディナンド・マゼラン (1480-1521) の艦隊を引き継いで世界周航に成功したフアン・セバスティアン・エルカーノ (1476-1526) が1522年にスペインに帰還したことにより、地球が丸いことが実証され、新たな線引きが必要となりました。その結果、それまでの境界線は少し東側の西経約35度辺りに移動して引かれ、香辛料の産地として東南アジア地域のマルッカ諸島付近(現インドネシア)でも両国は火花を散らしておりましたので、もう1本新たな境界線を東経約135度辺りに定めるというサラゴサ条約が1529年に両国の間で批准されます。国際政治と時の経済が密接に関連する好例と言えるでしょう。北方領土問題や尖閣諸島の問題を抱える日本としては、これは大いに記憶に留める価値がある話だと思います。]


一方のポルトガルは、ペドロ・アルヴァレス・カブラル (1467 or1 468-1520) が1500年に(アフリカ南端経由で)インドに向けて出発したところ、途中で嵐に遭い、結果として同年4月に今日のブラジルの南半球側Porto Seguro (西経39度付近) に漂着しました。次図が彼の取った航路(赤線が往路、青線がインドからの帰路)を示しています。↓


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インドには1498年にバスコ・ダ・ガマ (ca1460-1524) が到達しており、新大陸の開拓ではスペインに遅れを取ったものの、インドそのものには結局ポルトガルが先に辿り着きました。そのインドの地を確保するために派遣した後続のカブラルが、まるで運命のイタズラのように想定外に到着したブラジルです。逃すわけがありません。つまり、15世紀から16世紀にかけた、いわゆる大航海時代とは、船の改良を始めとして天文学や地理学など当時の科学技術が飛躍的に発展した時期と軌を一にして、ポルトガルとスペインが世界の覇権を求めて競い合った時代なのです。結果としては、その後にオランダやイギリスにその主導権を奪われてしまうわけですが、こうした歴史的事実をその時代背景から読み解きますと、まるで眼から鱗のように色々なことが理解されて来るのではないでしょうか。全3回にわたった『未知の世界へ』の旅立ちのお話ですが、これにて一旦終了とさせて頂きます。この話の続きは、またいつの日にか気が向きましたならば。




本日の音楽、コロンブスの名前にちなんでそれが国名となった南米コロンビアの作曲家ギジェルモ・ウリベ・オルギン (Guillermo Uribe Holguín, 1880-1971) の作品「Tres Danzas」を聴いてみましょう。






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未知の世界へ(2)
FNC3


前の記事で述べましたように、15世紀後半に未知の世界への探索に最も熱心だったのは、当時ヨーロッパ大陸で最も元気があったポルトガルとスペインでした。その内の一つポルトガルが自国の境界を超えて外の世界に関心を示したのには、大きな理由がありました。


6世紀後半、アラビア半島の中心都市メッカの主要部族にムハンマド (ca570-632) は、その周辺地域を占領支配を続ける内に既存のキリスト教やユダヤ教の諸史跡を次々と破壊し、唯一神アッラーフの啓示を受けたとして予言者としてイスラム教を説き始めました。その後、このイスラム教は彼の死後も勢力を拡大し、10世紀頃にはキリスト教の聖地イスラエルを含むアラブ地域のみならず、北アフリカ一帯から北はトルコ、東はインド近くまでを席巻するようになりました。


こうした勢力に押され現トルコの大半を奪われ苦境に立った東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(1048 or 1056-1118, 在位は1081-1118)は、ローマ教皇ウルバヌス2世 (1042-1099) に援軍を求めます。この要請を契機に、聖地エルサレムを奪還するために合計8回とも9回とも派遣された対イスラム圏への戦いがいわゆる「十字軍」です。この十字軍の政治的目的は、文字通り聖地の奪還、即ち対イスラム勢力との戦いを通じたキリスト教の復権ですが、実はもう一つの経済的理由がありました。イスラム勢力がアラブ世界を制覇したことにより、遠くインドなどを主産地とするアジアの香辛料などがすべてアラブの商人を介してしかヨーロッパには入らず、その利益がすべてイスラム世界に落ちてしまうことを阻止したいという背景もあったのです。しかし、10~13世紀頃のイスラム勢力は非常に強く、十字軍も部分的には領地を獲得したこともありましたが永くは持続できずに、ことごとに敗退する結果となってしまいました。


こうした状況下、ポルトガルのエンリケ航海王子によるセウタ攻略(前の記事参照のこと)を契機として、北アフリカ地域の地理に関する知識などが集積し(もちろんエジプト周辺の知識は既に十分得られていました)、それまで全く未知の世界であったアフリカ大陸を大きく迂回して当方のインドへ到達するという考え方が生まれたのです。もっとも、その時はアフリカがどのくらい大きな大陸であるかについて全く不明であり、先ずはアフリカの西岸を海岸伝いに南へ南へと探索を続けることから始まりました。ここで船の改良が絶対的に必須となったわけです。


このアフリカ大陸を反時計回りに周って東方へ向かおうという探検には、実はもう一つ蔭の狙いがありました。それはキリストの死後、その弟子たちが世界各地に伝道する内に、(地球上のどこであるかは不明であるが、東方のとある場所に定着し)その教えを固く信ずる王様が居て、イスラムの敵軍からの攻撃にもひるまず、それを簡単に蹴散らす程の実力者がいるらしい。その王様の名前は「プレスター・ジョン」という噂がヨーロッパ社会に拡がっていたのです。プレスターというのは聖職者というような意味になります。そのような人物が実在していたのか否かについては、実のところ非常に怪しいです。が、そうした架空の人物(その人物に相当する者はある意味では実際に存在していたとも言え、その話は別な機会にご紹介します)にすがらざるを得ないくらい、キリスト教世界が切迫していたのでしょう。要は、この「プレスター・ジョンを探せ」という指令が当時の(眼に見えない)至上命題になっていたことを指摘しておきたいと思います。


こうしてエンリケ航海王が亡くなった1460年頃には、現在のセネガル辺りまで到達するようになり、1481年ジョアン2世が王位に就いてから西アフリカ事業は彼の手に委ねられることになりました。王自らが乗り出したことにより、つぎ込める資金はそれまでより格段に増加しました。しかも、ジョアン王は船の改良の他に測量技術の開発なども同時に支援し、かつ、それらの新しい知見を徹底的な秘密主義で守ることにより、この事業での独占を図ろうとしたのです。


ジョアン王は、新しく開拓した土地にそれを占領した標(しるし)として、てっぺんには十字架が取り付けられ高さが5フィートにもなる石柱を作らせて、置くことにしました。この石柱を携えた最初の航海探検者がディオゴ・カンで、彼は1480年代に2回アフリカ南西部を探険し、赤道を超えてコンゴ川河口付近までに到達しています。実際に彼が残した石柱が、後世になって現地で発見されました。↓ この上部に十字架が立っていたと想像して下さい。


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ディオゴ・カンの後に更に遠方に到達したのが、バルトロメウ・ディアス (ca1450-1500) です。彼は1486年にジョアン王により遠征隊の指揮官に任命され、1487年10月にリスボンを出港し、現ナミビア辺りの海岸に到達、更に1488年1月頃に現南アフリカ付近の沖合で嵐に遭い、漂流する内に2月3日、偶然のようにアフリカ大陸南端に到達します。彼は、この後やや東の周辺まで移動、このまま行けば必ずやインドに到達できることを確信し、1988年5月、その帰路に就く途上喜望峰を発見します。喜望峰の名前は、ディアス自身はポルトガルに帰還後ジョアン王に「嵐の岬」と呼んで報告したのですが、東方への希望を開くということからジョアン王自身によって「喜望峰」と名前が付けられました。そして、このアフリカ最南端の情報を得て、実際に1498年5月にインドまで到達したのは、ご存じバスコ・ダ・ガマ (ca1460-1524) になります。


さて、ここで皆さん、重要なことに気が付かれましたでしょうか。コロンブスが大西洋を横断に成功し、バハマ諸島に到達したのが1492年。一方のバスコ・ダ・ガマがインドに到着したのは1498年。途中で差し抜かれていますね。しかも、バルトロメウ・ディアスやバスコ・ダ・ガマらが支援を受けていたのはポルトガルからで、同国のリスボンやサグレスの港から出港したのに対し、コロンブスが支援を受けたのはスペイン、カスティーリア国の女王イサベル1世 (1451-1504) であり、出港したのもスペイン南西部にあるパロスの港からでした。


実は、コロンブスは大西洋をそのまま西に向かえば必ずインドに到達する筈という彼の計画を最初はポルトガルのジョアン王に提案したのです。1484年頃のことでした。ところが、この頃はもう少しでアフリカ南端に到達し、インドまでの航路開拓までには今一歩という状況であったこと。また、このアフリカ周りの事業だけで国家の相当な資金をつぎ込んでいたため、ジョアン王は関心は示したものの、財政的に余裕が無く、コロンブスが要求した必要資金も膨大であり、加えて成功時の褒賞についても要求が多大であったため首を縦には振らなかったのです。そこでコロンブスがその話を持ち込んだのがスペインというわけです。スペインの方も決して余裕があったわけではなく、しかもまだこの時、周辺諸国との戦いに追われ、同じく関心は示せど直ぐにOKが出たわけではありません。ところが、1491年1月にイスラム影響下にあったグラナダが陥落し、財政的に余裕が生れたことがコロンブスにとって幸いとなりました。これら偶然とも言える出来事が相次ぎ、最終的にイサベル1世がその夫フェルナンド2世を説き伏せ、コロンブスの計画に承認が与えられたのです。もしも、コロンブスの登場が前後に少しでもずれていたならば、彼の新大陸発見は実現できなかったと思うと、実に歴史とは面白いものだと思います。 (つづく)






本日の音楽、この時代の音楽はどのようなものであったのか、イタリアの作曲家フランキヌス・ガッフリウス (Franchinus Gaffurius, 1451-1522) の作品とフランスの作曲家ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres, 1450 or 1455-1521) の声楽曲「Stabat Mater dolorosa」を聴いてみましょう。








なお、声楽曲の場合は、グレゴリオ聖歌が好例のように宗教的遺産として楽譜が残されており、今日再現が可能です。しかし、リュートなどを用いた器楽曲の場合、世俗的音楽として必ずや多くの人々によって様々な音楽が演奏され、また楽しまれていた筈にも拘わらず、その楽譜が残されていないために今日忠実な再現は難しいです。ルネッサンス期の音楽と題して種々のCDが出回っていますが、これらは大凡そのような音楽であったろうとのその後のバロック時代の音楽から類推に基づく音楽ではないかと思われます。YouTubeでもこれはという音源が見つかりませんでしたので割愛させて頂きました。どうか悪しからず。



未知の世界へ(1)
FNC1
プエルトリコにあるコロンブス像


今から遡ること524年前の今日、即ち1492年10月12日の早朝、クリストファー・コロンブスは現在のバハマ諸島の一つであり、その後サン・サルバドル島と名付けられたカリブ海に浮かぶ島に上陸しました。いわゆるヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の始まりとなる歴史的な一大イベントです。


その3日前、このまま(西方に向かえば必ず到達する筈と言われていたインドに到着することが叶わないどころか、陸地の影さえ見えない)航海を続けたのでは無事に生還することが出来ないと、乗組員からの暴動にも近い猛反対に押し切られ、「後3日だけ、3日だけ待って欲しい。それでも陸地が見えなかったら(出港した)スペインに帰還するから」と約束までさせられてしまいました。その3日目のことです。島影が視野に捉えられたのは。


この無謀とも言える未知の世界への旅立ちが実現するに至るには、幾多の困難にも怯まずに根気強く続けた執念の準備と偶然とも言える社会情勢があって初めて為し遂げられました。特に後者については、あまり多くの人には知られていません。これから暫くの間、この歴史的な出来事について少々考察をしてみたいと思います。


先ずはコロンブスが乗船していたサンタ・マリア号について。ほぼ忠実に再現された復元船の写真がこちらです。↓


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このような形の船はキャラック船と呼ばれ、これより小型のキャラベル船2隻を従え、コロンブスは計3隻で航海に乗り出しました。それまで主に長期航海に使われていた船の形はガレー船と呼ばれ、地中海のように比較的穏やかな海ではその船が十分に通用しました。しかし、大西洋のアゾレス諸島より遠方の大西洋の荒海では全く歯が立たず、強風によって難破してしまうという問題がありました。


14~15世紀、ポルトガル王朝が最盛期の時代、ジョアン王1世の三男エンリケ王子(1394-1460、後にエンリケ航海王子と呼ばれる)は、ポルトガル南西端の町サグレスの船大工たちに全く新しい船体構造と帆装を持つ設計図を見せました。エンリケ王子は、若かりし頃に北アフリカのジブラルタル海峡に近いイスラム文化の街セウタ攻略に成功して以後、さらに南方のアフリカ大陸大西洋岸一帯を探険開拓することを企図します。しかし、そのためにはそれまでの船では役に立たないことを実感しており、この船舶の改良が先ず重要との結論に至ったわけです。様々な実験的試みを経て、最終的に荒海にも耐える船が造り上げられました。船底と甲板を特別に強化した丸底の船体で、かつほぼ逆風でもジグザグ走行することによって帆走できる、アラブ由来の三角帆を採用し、操舵性能にも優れた、今日呼ばれるところのキャラベル船の登場です。アフリカ大陸西岸を南下探険するために、この時代のサグレスの町には、優れた船大工だけでなく、地球上未知の世界への進出に必要な専門家たち、たとえば地理学者や天文学者、その他測量の専門家を始めとする様々な分野の学者らなど、つまり当時最先端の技術・知識を持った人々が多数集められたのです。時代の革新には、こうした科学技術の集積・発展があって初めて可能となる実例として、このことは是非強調しておきたいと思います。 (つづく)




アメリカ大陸発見500周年を記念して公開された映画『1992 Conquest of Paradise』のメインテーマを本日の音楽と致しましょう。ギリシャの作曲家ヴァンゲリス(本名エヴァンゲロス・オディセアス・パパサナスィウ Evangelos Odysseas Papathanassiou, 1943-) による音楽は、正にこの一大イベントにふさわしい豪壮な調べです。





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