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一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

ポルトガル紀行(3)-海洋博物館
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実はジェロニモス修道院と同じ建物の西側に海洋博物館はあります。ほとんどの観光客は修道院とべレムの搭だけを見学することが多く、あまり顧みられない施設ですが、ポルトガルが世界の海に進出した歴史を学ぶ格好の資料が多数展示されていますので、是非こちらにも足を運ばれることをお薦め致します。上の写真は博物館への入り口。修道院の喧騒(右の前方)と対比して人が極端に少ないです。


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入場早々に出迎えてくれる立派な銅像は、かの有名な『エンリケ航海王子』(1394-1460)です。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ朝に次いで現れたアヴィス朝の創始者ジョアン1世 (João I, 1357-1433) の三男。一説に拠ると、1414年ジョアン王が息子たちに参加を呼び掛けて城内の余興として馬上一騎打ち大会を催すことを企画したところ(3人の王子たちが勝ち残るのは目に見えています)、「そのような形式ばかりの戦いでは意味がありません。実戦での武功を示してこそ真の価値があります」と進言。その当時、地中海ではイスラム勢力が圧倒的な力を誇示しており、ジブラルタル海峡の周辺はアフリカ大陸側(現在モロッコの領土)から突き出した半島の根元にセウタという町があり、ここを支配していたイスラム勢力がその港を根城にしていたため、ポルトガルやスペインなどは屈服を強いられていたのです。王子は、このセウタ攻略を大胆にも提案し、大方の予想を裏切ってその奪取に成功しました。(注. セウタは現在もポルトガル領になっています。)


このセウタ攻略が功績となり、王子はヴィゼウ公に任ぜられ、またこのことが契機となってアフリカの地理・文化や未知の地域との交易に大いに関心を持つことになり、積極的に新天地(この場合はアフリカ大陸のこと)開拓に乗り出すことになりました。遠方まで到達するためには、船舶の改良と天文学・海図・航海術等、科学的知識を高めることが必須の課題となり、エンリケ王子はその関連事業に資金をふんだんに継ぎ込むことを推し進めます。まだ王様ではない彼がそれ程までの資金を調達出来たのには、わけがあります。1420年、敬虔なキリスト教信者である彼はテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者に任ぜられ、この騎士団の莫大な資金を投入することが可能となったのです。


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一方、海洋開発事業が飛躍的に発展したもう一つの大きな要因は、大西洋の荒海(特に北アフリカ西側の海は荒れることで有名)に耐えるだけの強度を持った船舶の構造改良に成功したことです。地中海貿易では当たり前だった、いわゆる平底のガレー船ではなく、丸底のキャラベル船、あるいはほぼ同時期に開発されたより大型のキャラック船の登場です。コロンブスがアメリカ大陸発見に使用したサンタ・マリア号などはこの船型の代表になります。大西洋の荒れた大波に遭遇しても、この丸い船底によって力が分散し船体の崩壊を免れることが出来たのです。ちなみに上の写真で模型船の帆に描いてある赤い十字の印は、キリスト騎士団の紋章になります。


エンリケ航海王子の支援により、大西洋の開拓が日毎に進みます。マデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、カーボヴェルデ諸島の発見、そしてそれらの島々への入植。やがてアフリカ大陸大西洋岸沿いに新天地発見の地点は着実に延伸し、王子の存命中には現在のシエラレオネ付近まで到達しました。(なお王子自身は航海探険に出ておらず、あくまでその後方支援をしたことで、後に『航海王子』の名で呼ばれるようになっています。誤解されませんように。) 王子が他界後もポルトガルの海洋事業は継続し、この後、ディオゴ・カンによる現コンゴ河の河口付近における石柱の設置やバルトロメウ・ディアス (ca1450-1500) による喜望峰の発見(到達)があり、バスコ・ダ・ガマ (ca1460-1524) によるインド航路発見と繋がります。この辺りの背景や経過については、以前本ブログにて取り上げたことがありますので、そちらをご参照下さい(2016年10月16日の記事)。


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この新天地に足跡を遺した証としての石柱を打ち立てるシーンは、いわゆるリスボン港テージョ湾に向かって聳え立つ『発見のモニュメント』にも描かれています。開拓者たち一団を率いる先頭は、勿論エンリケ航海王子。石柱は側面の真ん中辺りに見えますので、是非記憶しておいて下さいね。


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大航海時代のみならず、その後のポルトガルの発展と船舶の進化の歴史を示す無数の(たぶん何百艘とある)リアルな模型(中には実物大も)と共に展示されていますから、模型マニアの方でしたらタメ息が出ること間違いなしです。








ポルトガルの作曲家、本日は時代を大きく遡ってジョアン4世(João IV, 1604-1656) の音楽を聴いてみましょう。首相にまでなった作曲家については知る人ぞ知る、とある有名人物が居りますが(誰かお分かりですか?)、王様自身が作曲をし楽譜が残っているということでは、この人が最たる人物になりますでしょうか。なお時代が時代ですから、教会音楽のグレゴリア聖歌になります。“Crux Fidelis”







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ポルトガル紀行(2)-べレンの搭
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ジェロニモス修道院から西南西の方向に1kmほど歩くと、リスボン港があるテージョ河畔の水上に白い建造物が聳え立っているのが見えます。べレンの搭と呼ばれ、完成は1519年。15世紀末から急速に世界展開した海洋国ポルトガルの心臓部を守るため、かつては見張りの兵隊たちが常時テージョ河を往来する船舶を見張っていました。


なおベレンの搭は、時の王マヌエル1世の命により建築家フランシスコ・デ・アルーダによって設計されました。通称マヌエル様式と呼ばれる気品と装飾性を兼ね備えた代表的建造物の一つで、なかなか見応えがあります。別のサイトにアップされていた朝日を受けた搭の写真も挙げておきましょう。実に美しいです。


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内部を見学することが可能です。しかし、搭の内部はあまり広くなく、特に国王との謁見の間となっている上層階への上り下りの螺旋階段が人一人通るのがやっとなくらいに極端に狭いため、常に入場者数が制限されています。そのため塔内に入るには長蛇の列を覚悟しなければなりません。ジェロニモス修道院でセットに売られている搭の入場券を買っておくと、少なくとも入場券購入の列に並ばなくて良いので(それでも待たされますが)、必ず事前に購入しておかれることをお薦め致します。


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イエスを抱いた聖母マリアの像は遥々外洋に船出する乗組員たちの安全祈願のシンボルであり、500年昔の航海が如何に危険であったかを思えば、ある意味哀しみを秘めた佇まいには感慨もひとしおと言わざるを得ません。


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搭は要塞として砲台の役割もありましたから、1階のすべての窓には大砲が備え付けられていました。


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思えば、我が国に初めて鉄砲が伝えられたのが1543年のポルトガル商人による種子島来訪(漂着)。ですから、その当時はポルトガルが貿易(当然軍事を含む)大国であったわけです。その後世界史の変遷の中で、主導権はスペイン、オランダ、イギリス(あるいはドイツ・フランス)へと順次奪われていったのですが、少なくともある時期、この国が世界No.1だったことは現地を実際に訪れてみて初めて実感として理解することが出来たように思います。この後の記事の中で、この点について少しずつ触れてみたいと思っています。







さて、ポルトガルの作曲家。本日はジョリ・ブラガ・サントス(Joly Braga Santos、1924-1988)についてご紹介したいと存じます。
生まれはリスボン。リスボン音楽院ではヴァイオリンと作曲を専攻。前記事でご紹介したルイス・デ・フレイタス・ブランコ (1890-1955) のお弟子さんでもありました。6曲の交響曲の他、ヴァイオリンとチェロの協奏曲、ピアノ協奏曲、チェロ協奏曲などが主だった作品。特に1947年から1950年にかけて毎年1作ずつ発表した交響曲1-4番は、いずれも第2次世界大戦終了後の未来を志向した作品群で聴き易いです。1966年に発表した交響曲5番以降は、一転ガラッと作風を変え、現代音楽風の新たな境地を示しています。


本日は、古典的な作風ながら傑作の交響曲第4番ホ長調 (1950年作) を聴いてみましょう。第4楽章最後の5分間が賛歌となっており、同曲最大の聴きどころでもあります。ちょっとギリシャの作曲家マノリス・カロミリスの交響曲第1番の賛歌 (2007年5月20日の記事) を彷彿とさせます。ここではその賛歌がコーラス版とオーケストラ版の2通りを挙げておきます。CDをお求めならMarco Poloから発売されています。


コーラス版



オーケストラ版


こちらは録音が悪くて聴き辛いところがありますが、本場(ポルトガル)のオーケストラによる演奏で最初から熱気に溢れ、とりわけフィナーレが感動的です。採用されている写真も貴重ですし。




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