一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

名作曲家の故郷ウィーン(3)
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ウィーン国立美術史美術館


国立博物館ではなく、わざわざ美術史美術館と命名している点が際立っています。この美術館には、主にハプスブルグ家が代々保有していたコレクションの中でも選りすぐりの名品の数々が展示されており、オーストリア・ハンガリー二重帝国の権勢と財力が如何に凄まじかったかを知ることができます。


無数の展示品の中から幾つか印象に残った作品(絵画)をご紹介しましょう。


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3つ目の絵画は、残念ながら窓の光線が写真に写り込んでしまいましたが、このフェルメールの作品がここに在るとはつゆ知らず、館内をゆっくりと見廻っている途中にバッタリと出会ってビックリ仰天しました。特別なコーナーに展示されているわけでもなく、ごくごく普通に1枚の絵画として展示されていたので、その驚きは尚更です。本家オランダの美術館、そして日本で何年か前に開催された大フェルメール展の分も含めれば、彼の作品の大半の現物を鑑賞出来たのは幸いでした。





思えば、岩倉具視を大使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、明治新政府の若き重鎮ら明治新政府の各省から派遣された総員48名から成る一団が1年9ヶ月余りにも及ぶ欧米への大視察旅行を敢行したのが1871~1873年(明治4~6年)のことでした。新しい日本をどのように築き上げるべきか、その範を見習おうとの調査旅行でしたが、徳川幕府から政権を奪取して僅か数年後のこと。予算的なことも含めて、現在では到底考えられない大英断だったと思います(事実、重要なリーダー格の人物らを失った留守中の明治新政権はガタガタになります)。


この使節団がウィーンを訪れたのが1873年の6月頃。折しも万国博覧会が同地で開催されていた丁度その時になります。ゆったりとした土地の中に壮麗とした大建築物群。それらの見事な外観にも圧倒されたでありましょうが、何よりもその中に収められていた優れた調度品の数々や生活文化の高さ。それまでに訪れたアメリカの大都市やロンドン、パリとは一味も二味も異なった文化の粋を見て、新生日本がヨーロッパ文化に追い付くのは並大抵のことではないことを実感したものと思われます。その後、新政府は真似ごとのように鹿鳴館などを建設し、これまた真似ごとのように西洋式舞踏会を開催するも、本場を見て来た使節団の心ある者たちは内心冷や冷やだったのではないでしょうか。




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ウィーン市内を散策すると、観光案内書にもほとんど紹介されていない教会すらその手の込んだ造作の美しさに驚かされます。


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中に一歩踏み入れば、外界の栄光とは無縁のように斃れたキリスト像が密やかに安置されていたりして、その対照的な静かさが心に沁み入ります。






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ロダン作 グスタフ・マーラー像


オーストリア帝国ボヘミアの町イ―グラウ(現チェコのイーフラヴァ市)で生まれたグスタフ・マーラー(1860-1911)は、主にウィーンで活躍した作曲家・指揮者です。マーラーが15才の時、イ―グラウの町を離れてウィーン楽友協会でローベルト・フックスに師事したのが1875年。その直前頃に岩倉具視らの使節団がウィーンの街を訪れたことを重ね合わせると、当時の雰囲気が想像出来るかと思います。


そのグスタフ・マーラー。今でこそ人口に膾炙する大作曲家ですが、ウィーンに出てからその後周辺各地の歌劇場の楽長などを歴任し、1898年、マーラーが38才の時についにウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)の指揮者に就任するも、彼の頑固一徹な性格もあって楽団やウィーンの聴衆・批評家たちとは折り合いが悪く、いつも衝突するばかり。結局その3年後にはウィーン・フィルの指揮者を辞任してしまいます(注. 歌劇場の指揮者の方は継続)。それでも指揮者としてなら、マーラーはそれなりに認められていたものの、作曲家としてのマーラーは時代の先を行き過ぎていたのか、決して喝采を浴びる存在ではありませんでした。


彼の語った言葉に強烈な印象を残すものが2つあります。

その一つは、「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として見られている」というもの。マーラーにとってのウィーンは決して懐かしの生まれ故郷ではなく、むしろ居心地の悪い都会でしかなかったのかも知れません。しかし、そのウィーンの街に出ること無くして彼の芸術が花開くことが無かったことも間違いのない真実でしょう。

もう一つは、「私の墓を訪ねる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない人に訪ねてもらう必要は無い」という主旨の発言。自信過剰と申しましょうか、強烈な自尊心です。しかしながら、それが少しも張ったりでもなければ、こけおどしでもないところが凄いです。腫れものに触るようで、おいそれとお近づきになるのは怖いと思いますが、もしもタイムマシンに乗ってその時代に行くことが出来るものなら、是非とも会ってお話してみたい歴史上の人物の一人です。


管理人のマーラーの作品に対する想い出や感想は、これまた沢山ありますが、一番最初に買ったレコードは交響曲第4番でした。メンゲルベルクがアムステルダム・コンセルトヘボウを指揮した演奏で、特に第3楽章の天国的な美しさにメロメロとなりました。その後、おこずかいが集まり次第他の作品にも手を出したのは当然として、痛かったのはただでも長時間作品が多く、大半の交響曲は皆2枚組だったこと。漸く貯まったおこづかいの4,000円前後を奮発し、少しずつ買い足して行きました。ですから、どの作品もそれはそれは大事に聴き込んだものです。


本日は、マーラーの厭世感が早期から滲みだした傑作「リュッケルトの詩による5つの歌」(1901-1902年作)から第3曲目「私はこの世に忘れられ Ich bin der Welt abhanden gekommen 」を聴いてみましょう。交響曲で言えば第5番を作曲したのが丁度その頃。続いて第6番「悲劇的」(1903-1904年作)を書いています。ほぼ同時期に作曲された「亡き児をしのぶ歌」もそうですが、アルマ・シントラーと結婚したばかりで、本来であればマーラーの幸福が絶頂であるべきこの時期に、何故にこのような厭世的な作品ばかりを作ったのか、不思議でなりません。ウィーン・フィルとの確執はそれほどまでに彼の作風に暗い影を落としていたのか、あるいはアルマとの結婚が後に苦悩の原因となることを既に予感していたのか、今となっては誰もその真相を明らかに出来ない謎となっています。それにしてもこのリュッケルトの詩による5つの歌は、人生の深淵を垣間見させる傑作だと思います。管理人が最初に聴き込んだのはブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、キャスリン・フェリアーによる名唱でしたが、今日はジャネット・ベーカーによる歌唱、ジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団で聴いてみましょう。




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