一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

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コルベ神父
FMK1


もうすぐクリスマスです。本日は、とあるカトリック神父について取り上げてみたいと思います。


かれこれ8年程以前の当ブログ記事ですが、こんな記事を覚えている方はいらっしゃるでしょうか。「アリの町のマリア」と呼ばれた北原怜子さんに関して書いた2008年1月23日の記事です。怜子(さとこ)さんが初めてキリスト教に出会ったきっかけとなったポーランド人の修道士とは、一般にゼノ神父(Zenon Żebrowski、1891- 1982)と呼ばれていますが、正しくはコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士になります。ゼノ修道士は1930年、彼が29才の時、他に4人の修道士の仲間たちと共に来日。以来、他界するまで全国各地を周りながら布教活動を続けますが、今日では東京下町にあったバタヤ部落、通称『蟻の街』を支援したことで、知る人ぞ知る存在になっていると思われます。


実は、本日の主人公は、この時ゼノ修道士らと一緒に来日したメンバーの一人であるコルベ神父(修道士)(Maksymilian Maria Kolbe、1894- 1941)です。コルベ神父は、当時ロシア帝国の属国としてその支配下にあったポーランドに生まれました(出生後の名前はライモンド・コルベ)。織物職人であった父ユリオ・コルベ氏も熱心な信者で、フランシスコ会のリーダー的存在でしたが、その愛国心の強さからポーランド独立の義勇軍に参加し、その結果ロシア軍に捕らえられ、1914年に処刑されています。


1907年、ライモンドが7才の時、兄フランシスコと共にコンベンツァル聖フランシスコ修道会への入会を決め、現在はウクライナ領内にある神学校に入学します。とりわけ数学の才能が並外れて優れており、司祭になるのは惜しいと担当した数学教師に言わしめたほどの俊才であったようです。マキシミリアンの名前は、この神学校時代に与えられ、更に1914年にローマで学ぶようになってから、聖母マリアへの崇敬を示すためにマリアの名前を付け加えるようになりました。


コルベ神父の布教活動として先ず最初に挙げられるべき功績は、1922年に『無原罪の聖母の騎士』(Rycerz Niepokalanej)を執筆・出版したことでしょうか。この後、ゼノ修道士と出会うことになり、一緒に来日することになりました。冒頭の絵の中でコルベ神父が日本語の本を抱えているのは、その本が日本語でも出版されたことを表しています。彼の人生については、次の動画に詳しく紹介されていますので、どうぞこちらを。





マキシミリアン・マリア・コルベ神父の名前が恒久のものとなった一連の出来事。それが上の動画の最後の方で語られています。英語がよく分からない方、あるいはそんな動画をゆっくり見ている時間など無いと仰る方のために、簡単に要約致しますと・・・


1936年、コルベ神父は中国や日本、インドでの活動を終えポーランドに帰国し、東洋への旅立ちの前に自らが創立したニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)の院長を務めながら活発な布教活動を続けます。しかし、何という不運でしょうか。時あたかもヒットラー率いるナチの力が益々増大しつつある時代であり、1939年には到頭ドイツ軍がポーランドに侵攻。日頃、彼の活発な布教活動をよく思わなかったナチによって彼はたちまち逮捕拘束されてしまいます。3ヶ月後に一旦は釈放されますが、その時には修道院は病院となり、ユダヤ人もカトリック教徒も分け隔てなく看護したことがナチを激怒させ、1941年月に再び逮捕。彼自身は祖先がボヘミアの移民であり、決してユダヤ人であった訳ではありませんでした。しかし、『無原罪の聖母の騎士』がナチに対して批判的であったこと、上記をのことを含めてユダヤ人を擁護する姿勢などから、弾圧の対象になったものと思われます。神父は、初め別の収容所に収監されますが、やがてアウシュビッツの強制収容所に移送されることになりました。


1941年の7月のある日、収容所から脱走者が出るという事件が起きました。この結果、見せしめのために収容者から無作為に10人が選ばれ、餓死刑に処されることが収容所の責任者によって決定されることに。この10人の中にいたあるポーランド兵が思わず嘆いて漏らした一言「かわいそうな私の妻、そして子供たちよ。彼らは一体どうなってしまうのか・・・」を聞いたコルベ神父は、人選を命令したドイツ軍将校の前に進み出て、「私はカトリックの司祭で、独り身です。どうか私を彼の身代わりにして下さい」と申し出ました。


この将校は、神父の申し出を受け入れ、神父ら10人が餓死刑に処せられることになりました。通常、このような刑が科されると受刑者は精神錯乱状態の中で死に至るらしいのですが、この時の神父は全く取り乱すことなく、他の受刑者らを励まし続けたため、牢内から聞こえる祈りと歌声によって、それはまるで聖堂のようであったと、その当時時折牢内の様子を見に行っていたある人物による証言が残されています。結局、餓死刑が科されてから2週間後、コルベ神父を含む4名(注. 上の動画では最後の1人とナレーションが入っている)にはまだ息があったため、最終的に薬物によって殺害されることになりました。1941年8月14日。享年47。今日、アウシュビッツの聖者と呼ばれることになった所以です。アーメン。






このコルベ神父をテーマとした特別な音楽があります。ポーランドの作曲家ヴォイチェフ・キラール(Wojciech Kilar、1932- 2013)が1994年に書き上げた交響楽団のための「Requiem Father Kolbe」がそれです。この音楽は、1998年制作のアメリカ映画「The Truman Show」の極めて印象的なラスト・シーンに採用され、そちらのサウンド・トラックの音楽として、より有名となりました。


非常に暗澹とした雰囲気から始まり、途中に何度かまるで息を止めるかのように休止を繰り返しながら、その重圧感が益々のしかかるように増加して行きます。しかし、不思議なことに最後は魂の浄化(あるいは昇華と言っても良いかも知れません)を迎えたかのようにエンディングする感動の音楽です。





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