一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

艦上戦闘機
ZFT1


父の遺品である写真アルバムの第一ページには、「昭和17年納入記念 海軍艦上戦闘機○○○号」との添え書きがある古いセピア色の写真が貼ってありました。正確に言えば、かつて管理人が子供であった頃には確かにそこに戦闘機の雄姿の写真がありました。しかし、その後長い時間の経過の中で、いつしかその写真は失われ、今では写真が剥ぎ取られた形跡だけが残っています。


リアルタイムで父が上記の出来事に関わっていたとは、年代から見ても疑わしく、何故そのような写真があったのか長い間謎でした。それがある時、父が勤めていた会社のことを少し調べてみる内に意外な事実が判明して来ました。


このブログでも管理人が小さかった頃の出来事を少々書きましたように、小学生の頃は一家で父が勤めていた小さな町工場の中の6畳一間に住み込んでいたのです。会社の主な業務は一般塗装で、様々な物品の表面を研磨し、必要なものはメッキし、吹き付け塗装をしていました。仕事の性質から、いつも工場内には有機溶媒の臭いが立ちこめ、粉塵が充満しており、朝から終業時まで大きな機械音などもして、今からすれば最悪の生活環境であったのではなかったかと思います。


しかし、当時の私はそれを気にすることもなく、会社の従業員の皆さんから(時には社長さんからも)マスコットのように可愛がられ、会社の敷地全体を我が家のように遊び場として毎日遊び動き回っていました。ところが、この会社の経営状態は思いの外悪かったようで、記憶する限りでも年々従業員の数が減少し(記憶が残る最も古いもので30人余り)、中学校に進学した頃は20人を割っていたように思います。そうした中、父もその会社を辞め自分で仕事を始めるようになり、いつしかその会社は別の同系会社に併合され、やがては倒産したという哀しい事実だけが耳に届くこととなりました。こうした時代の流れに翻弄された元従業員たちの貧しい生活とその後の苦難に満ちた人生は、実際に自分の眼で目撃しましたし、また元同僚同志として音信があった父からの話を通じて、まざまざと記憶に残っています。昭和から平成にかけて、日本が驚異的に経済発展した蔭にどれだけ悲惨な運命に追いやられた底辺の人々が居たことか、思い返す度に胸が締め付けられる思いが致します。


そんな裏さびれた町工場の記憶ばかりの会社ですが、驚くことに戦前から長く続く会社であり、最盛期はおそらく200人以上の従業員を抱えるちょっとした中企業であったことが明らかになりました。それは社名にも表れていて(ここでは実名を臥せさせて頂きますが)、単なる一般ペイントをする塗装会社ではなく、「特殊塗料」の開発をする会社です。もっとも「特殊塗料」と言っても、何のことを指すか分かり辛いですよね。ありていに言えば、軍用の航空機や車両・船舶のための塗料を作って塗装する会社だったのです。冒頭に述べた艦上戦闘機の写真は、そうして納入した製品の写真で、それを会社が記念として一部もしくは全員の従業員に配り、それを父が何らかの経緯でもらい受け、アルバムに貼って残していたというわけです。


写真の現物が残っていないため、それが何という戦闘機であったのか、正確には分かりません。しかし、微かに残る機体形状の記憶と様々な資料を照らし合わせた結果、それは零式艦上戦闘機、つまり通称「ゼロ戦」と呼ばれたものではなかったかと推測されました。


管理人は、時々特攻隊に関連した記事や音楽をこのブログの話題として取り上げて来ました。決してあの戦争を賛美するものではなく、むしろその正反対の立場を取るものではありますが、ともすると誤解を受ける印象を与えたかと反省することもありました。思うに、特攻隊やそれに関連する話題に限り、ある種特別の感情が込められたのは、ひょっとすると上記の個人的な思い入れがノスタルジーと相俟って無意識の内に表れたのかも知れません。今年中に、鹿児島に行く用事がありそうです。その時に何とか時間を作って知覧の平和会館を訪れてみたいと思っています。






今日の音楽、映画「永遠の0」の映像を背景にした「思い出よありがとう」です。この映画も、それから零式戦闘機の設計者を描いたと言われるアニメ「風立ちぬ」も、相変わらず多忙のため観てはおりません。しかし、この音楽は本来の主題歌ではないにも拘わらず、非常に映像とマッチしており、それを聴くだけで作品の言わんとすることが胸に深く響く名曲・名唱ではないでしょうか。







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