一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

最後の特攻隊と緑十字機
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昭和20年8月15日午後5時頃、第5航空艦隊司令長官 宇垣纏 中将 (当時55才)を乗せて第701航空隊飛行分隊長 中津留達雄 大尉 (当時23才) が操縦する艦上爆撃機「彗星」など11機が、九州大分飛行場を離陸した。向かった先は、既に米軍によって次々と上陸占領されていた沖縄方面である。翌朝、沖縄本島に近い(北方約40kmに位置する)伊平屋島に駐留する米軍キャンプ近くの岩礁に衝突していた機体が発見され、中から飛行服を身に付けていない1体を含む3名の遺体が収容された。


同日正午には昭和天皇によるポツダム宣言受諾の玉音放送があった後、まるでそれを無視するように出撃した、いわゆる最後の特攻隊である。宇垣中将としては、多くの若者に対して特攻命令を下したにも拘わらず無残にも敗戦に至った責任を感じ、自らの死に場所を探そうとしたのであろう。通常、操縦士と偵察通信員の2名が定員の「彗星」に、飛行服を着用することなく(実際、彼は操縦も通信も出来なかった)自分も一緒に出撃すると言い出し、1番機の操縦士と偵察通信員の間の狭い空間に無理やりまたがりながら離陸を命じたのである。沖縄までの飛行数時間の間に敵であるアメリカ軍に対して一矢を報いたいと米軍の艦船を探索するも、既に薄暗くなり始めた眼下の海面にそれらしき目標を見つけることは至難であった。そうこうする内に、沖縄本島の北方に位置する伊平屋島の上空を飛んだ時、時あたかも戦勝を祝って煌々と点けていた米軍キャンプの灯りを宇垣中将らは眼にすることとなった。思うに、そこを目掛けて「突入せよ」と、宇垣中将は号令を掛けたのであろう。


一方、この出撃が宇垣中将の自分本位な感情による死出の旅路であることを察していた隊長の中津留大尉にして見れば、米軍キャンプに爆弾を抱えたまま突入すれば、真珠湾攻撃のだまし討ちを再び犯したようなものである。ましてや、戦争終結の玉音放送を聞いた後であるから、天皇陛下のご意志にも反する卑劣な攻撃行動として、中将の命令にそのまま従うわけには行かない。かと言って、命令に強く逆らえば、彼は操縦席の直ぐ真後ろに座っているので、尋常なことで済む筈がない。中津留大尉が取ったであろう一つの決断は、中将の命令に従ったかのようにキャンプ目掛けて急降下しながらも、突入寸前に操縦桿を左に切り、その手前の海岸線にある岩礁に意図的に機体を衝突させたのではなかったかとの推測が、(後の状況から)為されている。何故なら、1番機がわざと目標を外すように舵を切った意図を察知したかのように、後続の2番機も海中に墜落し、結果として米軍には何らの被害も与えなかったからである。(注. 全11機が大分飛行場を飛び立つも、内3機が機体の整備不良などにより、沖縄に到達する以前に不時着を余儀なくされている。また伊平屋島に到達した2機と不時着した飛行機以外の機体は、沖縄海上のどこかで散華したものと推測されている。)




この最後の特攻隊についての秘話は、戦後になって城山三郎氏が「指揮官たちの特攻」という作品の中で、史上最初の神風特攻隊を指揮したと言われている関行男大尉(死後、2階級特進で海軍中佐となる)と共に、両者の数奇な運命を相対比しながら紹介したことにより、一般にも広く知られることとなりました。この作品です↓。


CTN2


この最後の特攻隊に関する諸事実については、以下のサイトに種々の写真・詳細な資料と共に紹介されています。


http://www.okinawa-senshi.com/last-kamikaze.html


ちなみに、このサイトの作成者によれば中津留大尉たちが突入直前に目標を意図的に回避したのではないかとの城山説に疑問を呈しており、それ程の操縦技術は無く、暗闇の中、地上の状況がよく見えないまま、周辺に停泊していた米国艦船などを目掛けて突入した可能性が高かったのではという解釈を採用しています。また宇垣中将は確実に終戦を知っていた筈と認めるものの、隊員たちが当時の状況を正確に把握していたかどうかは不明とも述べています。城山氏がそうあって欲しいとの願望を小説にしたのか、事実はその正反対であったのか、永遠の謎かも知れません。


いずれにせよ、終戦記念日に当たり、あの緑十字機[*]の秘話と共に、日本人として永く記憶に留めておくべき最重要の終戦エピソードではないでしょうか。


[*注. ポツダム宣言受諾直後にソ連の北方領土侵攻を少しでも早く止めたい連合国最高司令官マッカーサー元帥は、降伏文書の早期締結を要望し、進駐軍の受け入れを早急に進めるべく、日米の代表がマニラでその手順について話合いが出来るよう日本政府へ密使派遣の要請をしました。密使が搭乗する機体は、全面を白く塗り、側面に緑色の十字を描くようにとの指示が与えられていました。徹底抗戦を叫ぶ一部の日本陸軍は、本拠を厚木基地に置いており、この「緑十字機」の情報をいち早く察知、見つけたら直ちに撃ち落とせとの命令が友軍に発せられ、木更津飛行場を飛び立った2機の「緑十字機」は決死覚悟の飛行を沖縄まで(そこで米軍機に乗り換え、マニラまで飛び、帰路も同様のコースを辿ろうとするも、予想外の燃料不足により静岡県鮫島海岸に不時着、乗務員らは奇跡的に生存し、合意書と進駐計画の情報を東京に無事持ち帰った)することになります。この事実については、つい最近までごく限られた一部の人にしか知らされませんでしたが、静岡県磐田市在住の郷土史家 岡部英一氏により「緑十字機の記録」として2015年に自費出版され、今年の8月14日にその内容がテレビで放映され、一躍脚光を浴びるようになりました。YouTubeでその番組の映像を視ることが出来ます。]






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