一度踏み入ったら出口の全く見えない音楽の深い森。森の中を彷徨い歩く内に出会った神々と妖精たちのお話です。

未知の世界へ(2)
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前の記事で述べましたように、15世紀後半に未知の世界への探索に最も熱心だったのは、当時ヨーロッパ大陸で最も元気があったポルトガルとスペインでした。その内の一つポルトガルが自国の境界を超えて外の世界に関心を示したのには、大きな理由がありました。


6世紀後半、アラビア半島の中心都市メッカの主要部族にムハンマド (ca570-632) は、その周辺地域を占領支配を続ける内に既存のキリスト教やユダヤ教の諸史跡を次々と破壊し、唯一神アッラーフの啓示を受けたとして予言者としてイスラム教を説き始めました。その後、このイスラム教は彼の死後も勢力を拡大し、10世紀頃にはキリスト教の聖地イスラエルを含むアラブ地域のみならず、北アフリカ一帯から北はトルコ、東はインド近くまでを席巻するようになりました。


こうした勢力に押され現トルコの大半を奪われ苦境に立った東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(1048 or 1056-1118, 在位は1081-1118)は、ローマ教皇ウルバヌス2世 (1042-1099) に援軍を求めます。この要請を契機に、聖地エルサレムを奪還するために合計8回とも9回とも派遣された対イスラム圏への戦いがいわゆる「十字軍」です。この十字軍の政治的目的は、文字通り聖地の奪還、即ち対イスラム勢力との戦いを通じたキリスト教の復権ですが、実はもう一つの経済的理由がありました。イスラム勢力がアラブ世界を制覇したことにより、遠くインドなどを主産地とするアジアの香辛料などがすべてアラブの商人を介してしかヨーロッパには入らず、その利益がすべてイスラム世界に落ちてしまうことを阻止したいという背景もあったのです。しかし、10~13世紀頃のイスラム勢力は非常に強く、十字軍も部分的には領地を獲得したこともありましたが永くは持続できずに、ことごとに敗退する結果となってしまいました。


こうした状況下、ポルトガルのエンリケ航海王子によるセウタ攻略(前の記事参照のこと)を契機として、北アフリカ地域の地理に関する知識などが集積し(もちろんエジプト周辺の知識は既に十分得られていました)、それまで全く未知の世界であったアフリカ大陸を大きく迂回して当方のインドへ到達するという考え方が生まれたのです。もっとも、その時はアフリカがどのくらい大きな大陸であるかについて全く不明であり、先ずはアフリカの西岸を海岸伝いに南へ南へと探索を続けることから始まりました。ここで船の改良が絶対的に必須となったわけです。


このアフリカ大陸を反時計回りに周って東方へ向かおうという探検には、実はもう一つ蔭の狙いがありました。それはキリストの死後、その弟子たちが世界各地に伝道する内に、(地球上のどこであるかは不明であるが、東方のとある場所に定着し)その教えを固く信ずる王様が居て、イスラムの敵軍からの攻撃にもひるまず、それを簡単に蹴散らす程の実力者がいるらしい。その王様の名前は「プレスター・ジョン」という噂がヨーロッパ社会に拡がっていたのです。プレスターというのは聖職者というような意味になります。そのような人物が実在していたのか否かについては、実のところ非常に怪しいです。が、そうした架空の人物(その人物に相当する者はある意味では実際に存在していたとも言え、その話は別な機会にご紹介します)にすがらざるを得ないくらい、キリスト教世界が切迫していたのでしょう。要は、この「プレスター・ジョンを探せ」という指令が当時の(眼に見えない)至上命題になっていたことを指摘しておきたいと思います。


こうしてエンリケ航海王が亡くなった1460年頃には、現在のセネガル辺りまで到達するようになり、1481年ジョアン2世が王位に就いてから西アフリカ事業は彼の手に委ねられることになりました。王自らが乗り出したことにより、つぎ込める資金はそれまでより格段に増加しました。しかも、ジョアン王は船の改良の他に測量技術の開発なども同時に支援し、かつ、それらの新しい知見を徹底的な秘密主義で守ることにより、この事業での独占を図ろうとしたのです。


ジョアン王は、新しく開拓した土地にそれを占領した標(しるし)として、てっぺんには十字架が取り付けられ高さが5フィートにもなる石柱を作らせて、置くことにしました。この石柱を携えた最初の航海探検者がディオゴ・カンで、彼は1480年代に2回アフリカ南西部を探険し、赤道を超えてコンゴ川河口付近までに到達しています。実際に彼が残した石柱が、後世になって現地で発見されました。↓ この上部に十字架が立っていたと想像して下さい。


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ディオゴ・カンの後に更に遠方に到達したのが、バルトロメウ・ディアス (ca1450-1500) です。彼は1486年にジョアン王により遠征隊の指揮官に任命され、1487年10月にリスボンを出港し、現ナミビア辺りの海岸に到達、更に1488年1月頃に現南アフリカ付近の沖合で嵐に遭い、漂流する内に2月3日、偶然のようにアフリカ大陸南端に到達します。彼は、この後やや東の周辺まで移動、このまま行けば必ずやインドに到達できることを確信し、1988年5月、その帰路に就く途上喜望峰を発見します。喜望峰の名前は、ディアス自身はポルトガルに帰還後ジョアン王に「嵐の岬」と呼んで報告したのですが、東方への希望を開くということからジョアン王自身によって「喜望峰」と名前が付けられました。そして、このアフリカ最南端の情報を得て、実際に1498年5月にインドまで到達したのは、ご存じバスコ・ダ・ガマ (ca1460-1524) になります。


さて、ここで皆さん、重要なことに気が付かれましたでしょうか。コロンブスが大西洋を横断に成功し、バハマ諸島に到達したのが1492年。一方のバスコ・ダ・ガマがインドに到着したのは1498年。途中で差し抜かれていますね。しかも、バルトロメウ・ディアスやバスコ・ダ・ガマらが支援を受けていたのはポルトガルからで、同国のリスボンやサグレスの港から出港したのに対し、コロンブスが支援を受けたのはスペイン、カスティーリア国の女王イサベル1世 (1451-1504) であり、出港したのもスペイン南西部にあるパロスの港からでした。


実は、コロンブスは大西洋をそのまま西に向かえば必ずインドに到達する筈という彼の計画を最初はポルトガルのジョアン王に提案したのです。1484年頃のことでした。ところが、この頃はもう少しでアフリカ南端に到達し、インドまでの航路開拓までには今一歩という状況であったこと。また、このアフリカ周りの事業だけで国家の相当な資金をつぎ込んでいたため、ジョアン王は関心は示したものの、財政的に余裕が無く、コロンブスが要求した必要資金も膨大であり、加えて成功時の褒賞についても要求が多大であったため首を縦には振らなかったのです。そこでコロンブスがその話を持ち込んだのがスペインというわけです。スペインの方も決して余裕があったわけではなく、しかもまだこの時、周辺諸国との戦いに追われ、同じく関心は示せど直ぐにOKが出たわけではありません。ところが、1491年1月にイスラム影響下にあったグラナダが陥落し、財政的に余裕が生れたことがコロンブスにとって幸いとなりました。これら偶然とも言える出来事が相次ぎ、最終的にイサベル1世がその夫フェルナンド2世を説き伏せ、コロンブスの計画に承認が与えられたのです。もしも、コロンブスの登場が前後に少しでもずれていたならば、彼の新大陸発見は実現できなかったと思うと、実に歴史とは面白いものだと思います。 (つづく)






本日の音楽、この時代の音楽はどのようなものであったのか、イタリアの作曲家フランキヌス・ガッフリウス (Franchinus Gaffurius, 1451-1522) の作品とフランスの作曲家ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres, 1450 or 1455-1521) の声楽曲「Stabat Mater dolorosa」を聴いてみましょう。








なお、声楽曲の場合は、グレゴリオ聖歌が好例のように宗教的遺産として楽譜が残されており、今日再現が可能です。しかし、リュートなどを用いた器楽曲の場合、世俗的音楽として必ずや多くの人々によって様々な音楽が演奏され、また楽しまれていた筈にも拘わらず、その楽譜が残されていないために今日忠実な再現は難しいです。ルネッサンス期の音楽と題して種々のCDが出回っていますが、これらは大凡そのような音楽であったろうとのその後のバロック時代の音楽から類推に基づく音楽ではないかと思われます。YouTubeでもこれはという音源が見つかりませんでしたので割愛させて頂きました。どうか悪しからず。


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